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合氣道は「質」の学び ―形稽古とは何か―

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8月に、1年振りに勝沼の大善寺... 8月に、1年振りに勝沼の大善寺にお参りしてきました。
ご住職の奥様と、お互いにそれぞれ「逃げ恥」のロケが来た時のことなどを話して、楽しい時間を過ごすことができました。
写真はその日、境内にある役行者を祀った「行者堂」に参拝した時、空に現われた「海老」です。
「海老」は「長寿」や「幸運」を表す非常に縁起の良いものだそうですね。





 以前自分は稽古の時、こんなたとえ話(馬鹿話)をしました。


 ある国に貧しいながらも大変優秀な発明家がいました。
 彼は苦心の末に、電磁石の力で車体を浮き上がらせて滑らかに、しかも高速で走行可能な、夢の列車(リニアモーターカー)を発明しました。
 リニアモーターカーが実現すれば、理論上は最高時速500kmを超えるのも夢ではなく、そうすれば遠い町までもあっという間に行くことができるようになるだろう、と大きな話題になりました。
 そしていつの頃からか人々の間では、「リニアモーターカー」とは、とにかくスピードの速さが取り柄で、高速移動のための夢の超特急であるという認識が定着していきました。

 そんな頃、ある別の事業家が、
 「俺こそが本物のリニアモーターカーを発明した!」
 「俺の発明したリニアモーターカーは時速800kmも出せるんだぞ!」
 と吹聴し、ド派手で格好いい試作車を大々的にお披露目しました。
 ところがその試作車は格好ばかりで、台車の後にロケットエンジンを載せて轟音と共に火炎を噴射しながら疾走する、「リニアモーターカー」というよりは「ロケットカー」と呼ぶべきものでした。

 発明家は言いました。
 「それはリニアモーターカーではない!」

 事業家も言い返します。
 「何を言う!俺の発明した方が本物のリニアモーターカーだ!」
 「お前の方こそフェイクだ!」

 両者の論争はいつまで経っても収まりません。

 人々も、当初は二人の論争を静観していましたが、そのうち「発明家派」と「事業家派」に分断され始め、激しく言い争い、いがみ合うようになってしまいました。

 とうとうある日、権威のある人間が両者の論争に終止符を打つための妙案を思い付きました。
 「このような論争を収めるなど、いともたやすいことではないか。リニアモーターカーの命はスピードの速さなのだから、両者が競走してみればいい。」
 「競走して勝った方を本物のリニアモーターカーと認定すればいい。これこそが公正な物事の決め方であり、きっと民意でもある。」

 人々は諸手を挙げてこの意見に賛同しました。
 「そうだ!そうだ!」
 「白黒ハッキリと勝負を付けるようにすれば、嘘は通用しなくなる筈だ!」
 「本物ならば結果を出して証明できる筈だ!」

 かくして、人々の莫大な血税が投入され、全長数十kmはあろうレース場が突貫工事で完成しました。

 レース当日。
 人々が固唾を呑んで見守る中、遂にスタートのランプが点灯しました。
 じわじわと加速する発明家の車両を後目に、事業家の車両は火を噴きながら轟音と共にあっという間に視界から消え去って行きました。
 結果は事業家の圧勝でした。
 その速さといったら、途中、音速をも超えていたそうです。

 白黒ハッキリと決着が付いたお陰でやっと論争は収まり、人々は言い争うこともなくなりました。
 しかしそれ以来、この国では「リニアモーターカー」とは火炎を噴射しながら轟音と共に疾走するもの、ということになりました。
 めでたし、めでたし。



 我ながら、実にくだらない馬鹿話だと感心してしまいますが、上記のような「馬鹿げたこと」は、現代社会のあらゆる場所、分野、業界で実際に起きていることに近いのではないか(?)と思います。
 そしてこれはもちろん、合氣道の世界でも十分起こり得ることとして注意しなければならないと思うのです。


 さいたま市で振武舘黒田道場を主宰し、代々伝わる家伝の武術を継承されておられる黒田鉄山先生は、長年、月刊「秘伝」誌上で読者からの質問に答えるコラムを担当されています。
 そして黒田鉄山先生は、誌上でもことある毎に「型は実戦の雛型ではない」と繰り返し仰っています。
 この「型は実戦の雛型ではない」という戒めは、現代の全ての武術・武道修行者が肝に銘じるべき、型(形)稽古の鉄則であり、合氣道の稽古においても忘れてはならないものだといえます。



 私たちは、形稽古を通して何を学ぶのか?

 練心館ではいつも言っていることですが、それは「質」です。
 そしてそれをより具体的に言い換えるならば、「心身統一」と「氣の原理」であり、もっと細かく言えば、「体軸の感覚」「脱力」「丹田の感覚」「腹圧」「勁力」「身体の結び」「氣の感覚」「氣の結び」「相手の氣を導く」といったことです。

 しかしながら、実際は、武術・武道を志す人間の多くが、たとえそれが合氣道や古流武術のような形稽古を主体とする流儀であっても、ついつい目先の「強さ」や「敵を倒す」といった、目に見える現象としての分かり易い成果を求めて稽古してしまうという傾向は、否めないのではないかと思います。
 理由としては、世の中の多くの現代武道がスポーツ競技化しており、それらの稽古は、多くの人が「体育の授業」や「部活動」等で培ってきたスポーツの練習法と同じ感覚でやっても、特に違和感を感じない、ということにあるのではないかと思います。

 スポーツ・格闘技として、試合で相手を圧倒し、ポイントを取ったりノックアウトしたりと、「勝利」という明確な結果を出す目的があるのなら、「強くなる」「敵を倒す」の一心で、「乱取り」や「スパーリング」に励むスタイルの練習で一向に構わないし、むしろその方が効果的な練習法だと言えるでしょう。

 しかし、その方法論をそのまま形稽古に当てはめて、闘争心に燃えながら合氣道や古流武術の練習をやってしまうと、「形稽古とは本来何のためにやるものなのか」といった根本的な意味の抜け落ちた、全く以て意味不明な、訳の分からないものになってしまいます。
 その結果、苦し紛れに、形そのものを競技化したり、ただ闇雲に形の迫力やスピードのアップを目指したり、結局は、「形稽古で覚えた技をスパーリングで使えるようにするのだ」等と言った、形稽古本来の意味から逸脱した、完全に的外れで頓珍漢なことになってしまう傾向は否めないと思うのです。

 この言葉は黒田鉄山先生の完全なる受け売りですが、やはり、「型(形)は実戦の雛型ではない」のです。

 そもそも合氣道では、相手に手首を掴ませた状態から入り身投げをしたり、呼吸投げをしたりする形が多数ありますが、常識的に、普通に考えれば、これらの形が実戦を想定した戦闘法である訳がないと、誰もが気付く筈ではないかと思うのですが・・・。



 練心館では、「質」を求めて稽古することを重視しています。
 それを長く続けていると、自ずと合氣道のそれぞれの形稽古の意味(※その形稽古を繰り返すことによってどういった「質」を学ぶのか)が見えてきます。

 そして練心館では、「強くなる」「相手を倒す」ことを目的にして稽古をするな、と厳しく戒めています。
 それをやってしまうと、天性のセンスのある人以外は皆、見た目の形は合氣道のような体をしていても、力み癖のある人は力んだまま、ぶつかる癖のある人はぶつかり合って、闘争心の強い人は激しく争って、或は、腕力で強引に人を捻じ伏せ押し倒したり、関節技で相手を痛め付けるといったような、お世辞にも「合氣道」と呼ぶには相応しくないモノになってしまう傾向があるからです。

 「質」を求めて稽古するということは、言い換えるならば、「センス」そのものを構築し磨き上げていく作業であるとも言えます。
 たとえ体格や体力に恵まれていなくても、運動が苦手でも、ゆっくりでも良いから、誰もが「質」としては達人・名人と同じ技を体現(※疑似体現)できるようにしていけるのも形稽古の優れた点です。
 その技を使って実際に暴れる暴漢を倒したり制圧したりできなくとも、達人・名人と同じ「質」の心や身体の使い方ができるようになったとしたら、それは、人生全般のあらゆる場面に応用して、有効に活かせる、素晴らしい「生きる知恵」の学びとなる筈です。
 たとえるならば、最高速度がたったの時速30kmしか出ないとしても、電磁石の力で車体を浮き上がらせて、滑るように走ることができたら、それは正真正銘、本物のリニアモーターカーだと言えるのです。
 先ずは、「正真正銘の本物のリニアモーター」を己自身の中に構築することさえできたなら、後は本人が最高速30kmのままでも良いと言うのなら、それはそれで一向に構わないですし、いずれは時速500kmを目指したり600kmを目指したいと言うのであれば、それはその後の本人の努力次第です。
 稽古の時に自分がよく言う「本物」であるかどうかというのは、この「質」の問題であって、強いか弱いか(※最高速が何kmかどうか)は正直、あまり重要視していません。
 ですので、練心館では屈強な男性よりも小柄な女性の方が中身の実力はずっと上だと評価されることがしょっちゅうです。

 また、練心館も含めた「藤平光一先生スタイル」の合氣道では、「心身統一体のテスト」と称して、「身体を押されてもグラつかないか」というテストをよく行います。
 この時も、ただ、押されて動かなかったら「勝ち」、押されて動いてしまったら「負け」といったような、「目に見える分かり易い現象としての結果」ばかりに囚われてしまうと、大切な「本質」を見失います。
 「心身統一体のテスト」とは、心と身体がどういう「質」の状態であるかを、お互いに気付き、更に修正、向上していくための大切な学びです。
 強く押されると「動くまい」としてついつい強張ってしまう人に対しては、「優しくそっと押された位ではびくともしない」という経験を重ねてもらうことで、「強張る必要はないのだ」ということを学んでもらうことが大切ですし、心の集中力が散漫でグラついてしまうような人(※子どもさんには多いです)には、多少の強張りには目を瞑ってあげて、「前に心(氣)を向け集中することで、少々押されてもびくともしなくなる強さが得られる」という経験を重ねてもらうことで、「心の強さや集中力(※氣を出すということ)」を学んでもらうことが大切です。



 そもそも、合氣道を「強くなろう」「相手を倒そう」と思って稽古することは間違っています。
 なぜなら、それは合氣道開祖である植芝盛平先生の教えに反するからです。
 世界中の「合氣道」の名前を冠した武道の修行者は、もっとこのことを肝に銘じなくてはならないと思います。


 植芝の合気道には敵がいないのだ。相手があり敵があって、それより強くなり、それを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いである。真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ、宇宙の中心に帰一することだ。合気道では強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一すること、帰一しようとする心が必要なのである。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道なのである。
                  (『合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録』P115より)
#ブログ #合気道 #武術 #武道

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