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  • 「争わざるの理」でどう生きるか?

「争わざるの理」でどう生きるか?

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 約二か月振りの投稿になってしまいました。

 内容は、前回の続編です。

 合氣道は「争い」の道ではなく、「愛」と「調和」、つまり「平和」への修行の道である、とは今更説明するまでもないかも知れません。

 ところで、心身統一合氣道創始者であられる藤平光一先生の教えに「争わざるの理」というものがありました。
 「相対的観念から脱却し絶対的境地に至り、絶対的天地の理を実行すれば、争うことなく、誰もが真の成功の道を歩むことができる」、というものでした。
 これは、藤平先生の数々の教えの中でも代表的なものの一つだと言えますが、現実社会の中で、我々のような凡人が、この「争わざるの理」を以て具体的にどう生きるか、となると、一筋縄ではいかない問題です。

 熾烈な競争社会は今後もまだ続くような気配です。
 子どもたちは常に点数を付けられ数値化され、偏差値を上げることの競争に、そして大人たちは、より大きな金銭的成果を上げることの競争に、相も変わらず汲々としているように見受けられます。




 かつて、国民的人気グループSMAPが歌う「世界で一つだけの花」という曲が大ヒットしました。もう、十年以上前のことだと思うと、妙に感慨深いものがあります・・・。

 ナンバーワンではなくとも、誰もが皆、生まれながらにしてオンリーワンであるということに自信と誇りを持つべきで、それ故、あらゆる存在は皆、生得的に尊いのだ、といった歌詞の内容で、「相対的観念から脱却し、絶対的境地に至る」という合氣道の教えにぴったり合致するものでした。
 しかしこの歌の中でも、人間はなかなか「花」のように割り切って生きることができず、すぐに「較べたがり」「競いたがる」ものだと嘆かれています。

 どうして人間は「花」のように、「較べず」「競わず」、「絶対的境地」で生きることが難しいのか?

 その根源的な理由として、自分なりに思い至ったのが、急に仏教的な話に飛躍した感はありますが、「花」に代表される植物と違って、人間を含む動物は、より多くの「業(ごう)」を背負わされ、運命付けられている存在だからではないか・・・?、ということでした。

 つまり、植物は基本的に他の命を犠牲にしなくても生きられる存在であるのに対して、人間を含む動物は、争って他の命を奪い犠牲にしなければ、自らの命そのものを保つことができない、罪深く「業」の深い存在である、ということです。

 そこで大脳の発達した人間だけが、「それならば争いに勝ち、より多く奪い、犠牲にし、所有することができたならば、自らの生存性もより高まるであろう」、と考えるようになったのではないか・・・?、と思われます。
 大体、人間の、勝ち負けや順位に拘る「相対的観念」の始まりは、そんな所にあるのではないか・・・?、と考えます。




 宮沢賢治は、この「他の命を奪い、犠牲にしなければ生きられない」という「業」を真正面から捉え、しばしば作品の重要なモチーフとして描いています。

 「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。」
 (『よだかの星』より)

 「ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」
 (『銀河鉄道の夜』より)




 藤平光一先生は仰います。
 
 「絶対的天地に争いはなく、相対的世界にのみ争いは生ず。」

 我々が日々生きているこの世界が、争いの絶えない「相対的世界」だとするならば、争いのない「絶対的天地」とは一体どこに存在するのか?。
 多くの人が疑問に思うところです。



 真実は、この宇宙には本来「絶対的天地」のみが存在し、「相対的世界」とは、人間の観念が勝手に作り出したもの、ということだと思います。
 
 そして言い換えるならば、その人が争いのない「絶対的天地」に生きるか、争いの絶えない「相対的世界」を生きるかは、その人の心の持ち方次第ではないか?、ということです。



 「相対的観念」に囚われている人は、アフリカのサバンナの草原でライオンがシマウマを襲って食べたり、チーターがガゼルを襲って食べたりする様子を見て、自然界の摂理は「弱肉強食」であり、強い者だけが生き残る権利を有するのだ、と言います。

 しかし、これでは全く「木を見て森を見ず」で、本当の天地宇宙の摂理・真理を、見落としているといえます。


 昔、理科の教科書に食物連鎖の三角形のピラミッド構造がよく載っていましたが、自然界は、圧倒的多数の植物を生かし、それを捕食するやや少数の草食動物を生かし、そしてそれら草食動物を捕食する更に少数の肉食動物を生かしています。

 そして肉食動物が常に、生きるために最小限の、一定数の草食動物を捕食してくれるおかげで、草食動物が増え過ぎて、草原の草を全て食べ尽してしまうことを防止してくれています。
 サバンナの美しい緑の草原を維持するためには、肉食動物の活動も欠かせない訳です。


 よってライオンがシマウマを襲って食べている姿は「弱肉強食」を表しているのではなく、むしろ(ちょっと残酷に見えますが)大自然の美しい「調和」の姿を表しているのだと捉える・・・。
 これが「絶対的境地」でものを見る、ということではないかと思います。

 そもそも、食物連鎖の頂点に君臨しているからといって、ライオンを「百獣の王」などと称するのも、「相対的観念」に囚われた人間の勝手な思い込みではないでしょうか?。

 天地宇宙から見れば、「植物よりも草食動物の方が偉くて、更にそれよりも肉食動物の方がより偉い」などといった考え方は、見当違いも甚だしい戯言だといえます。
 それぞれの生き物に、それぞれ代え難い、大切な役割が天から与えられており、それぞれがその役目を全うすることで、天地宇宙と大自然の「調和」はより美しく達成されるのです。


 合氣道開祖、植芝盛平先生は、「処(ところ)を得さしむ」という言葉を使ってこれを表現されていました。

 「森羅万象すべてに、虫けらまでにもその処を得さしめ、そして各々の道を守り、生成化育の大道を明らかにするのが合気道の道であります。」
 (『武産合氣』P38~39)

 「草木、虫、魚、獣類の各々にその処を得さしめて、楽土を建設してゆくのです。」
 (『武産合氣』P73)

 「山川草木、禽獣魚虫類にまで、その処を得さしめ、共に楽しむのが合気道であります。」
 (『武産合氣』P80)




 「争わざるの理」を以て、人間はいかに生きるのか?

 恐らく、外面的にはそれ程変わるところはないのではないかと思います。
 受験生は合格目指して毎日必死で勉強し、就活生は内定目指して日々全力で活動し、ビジネスパーソンは少しでも業績を上げるために、毎日身を粉にして働く。
 それ意外にないでしょう。

 しかし、内面的、精神的には、随分変わるのではないかと思います。

 目標に向って全力で努力することは何よりも尊いことですが、天地宇宙の摂理・真理である「絶対的境地」から見れば、その結果には本来、「勝ち」も「負け」も存在しません。
 「勝つ」とは「負ける」に対するただの「概念」であり、これらは単に、常に両者が一対となっていなくては成り立たないただの「概念」です。

 本来、天地宇宙には「勝ち」も「負け」も存在しないのですが、何者かを「勝ち」に指定すれば自動的に他の何者かが「負け」のレッテルを貼られてしまうのは必定です。
 その逆も然りで、何者かを「負け」とすれば自動的に他の何者かが「勝ち」のレッテルを貼られるだけのことです。
 また、この「勝ち」「負け」というのも甚だ頼りないもので、短期的に見れば「負け」に見えていたものが、長期的に見たら大きなプラスの財産となったり、逆に、短期的には「勝ち」に見えていたものが、長期的には取り返しのつかないマイナス要因となってしまったりと、人生ではよくあることです。




 「争わざるの理」を以て生きるとは、詰まる所、各人の心の持ち方の問題であり、せめてより具体的に言うならば、

*「己が信じる『天から己に与えられた使命』を全力で全うし、世界、延いては天地宇宙の平和と生成発展に少しでも寄与する。」

*「他人といちいち較べない。」

 という以外にないのではないかと思います。



 これが真に達成できた時、「相対的観念」を超越した魂の絶対的勝利を得ることができる。
 つまり、合氣道開祖、植芝盛平先生が仰った「正勝吾勝勝速日(まさかつあがつかちはやび)の道」とはこのことだと思われます。




 また、スピリチュアリストの江原啓之さんは以前、「素材と料理」という言葉を使って、このことをもっと解かり易く説明されていました。

 「鶏肉」「豚肉」「米」「トウモロコシ」「トマト」「ジャガイモ」「リンゴ」「バナナ」。これらは皆「素材」です。
 人間も皆、生まれながらにして様々な「素材(個性)」を持って生まれてきており、これは変えることのできない「宿命」なのだそうです。
 しかし、「運命」は自らの努力で切り拓き、変えていくことができる。
 それが、自らの「素材」をどう美味しく「料理」するか?ということなのだそうです。


 確かに、安価で素朴な素材でも、料理の仕方によってはそれを極上の逸品に変えることも可能です。
 それに、世界中には様々な「食材」と「料理」がありますが、それらの「素材」と「料理」には、人間の勝手な都合で付いてしまった、単なる価格の「高い」「安い」があるだけで、本来、そこには「勝ち」も「負け」も存在しません。


 同じ様に、サバンナの草原でも、ライオンはライオンの「宿命」を背負って生きる以外なく、シマウマはシマウマの「宿命」を背負って生きる以外ありません。
 ライオンを「幸福な勝ち組」、シマウマを「不幸な負け組」だと勝手に決め付けて、それこそ「弱者を救ってやるのだ」という「善意(偽善?)」から、シマウマに、自分より小さな動物を襲って殺させ、その生肉を食べるように強制したとしても、シマウマは喜ぶ筈もありません。

 繰り返しますが、ライオンを「百獣の王」などと呼ぶのは、そもそもが「相対的観念」に囚われた人間の勝手な思い込みです。
 それぞれの動植物が、それぞれの天から与えられた大切な役割を全うしているだけで、そこには「勝ち」「負け」などなく、大自然、延いては天地宇宙の美しい「調和」があるだけなのです。




 ところで、話はまた少々飛躍しますが、自分は、旧約聖書「創世記」第3章の、人間の「堕罪」と「楽園喪失」の物語を、人間が「相対的観念」に囚われ「絶対的境地」を見失う、つまりは、「絶対的天地」を離れ「相対的世界」へと埋没する切っ掛けの物語ではないか?と、勝手に読んでいます。

 「エデン」とはヘブル語で「喜び」の意味だそうで、もともと人間の祖先であるアダムとエバは神に祝福された楽園「エデンの園」で喜びに満ちた生活をしていました。
 ところが、蛇に誘惑され、神の禁令を破り、善悪の知識の木の果実を食べてしまいました。

 「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(5節)と旧約聖書にはありますが、飽くまでもこれは、「神を真似たように善悪を知る」ということであり、「神と全く同じように善悪を知る」ということでは決してないと思います。

 もしも天地宇宙の絶対的真実・真理としての「善悪」があるとすれば、それは到底人間には判断できず、神のみぞ知るものでしょう。
 しかし、禁断の果実を食べてしまった人間は、人間の勝手な都合で「善悪」「勝ち負け」と何事も「分断」せずにはいられなくなり、それに拘らずにはものを見れなくなってしまった、ということではないかと思います。
 つまりそれは、「相対的観念」の囚われ人となってしまった、ということを意味するのだと思います。

 その結果、二人は「エデンの園」を追放され、

*産みの苦しみ(生まれて来る希望は同時に原罪を背負う苦しみでもあり、そして必ず痛みを伴う。)

*女は夫を慕い夫に隷属する苦しみ(延いては、力の強い者が勝ち、弱い者を支配するという、「力の論理」を意味するのか?)

*飢えの苦しみ(足るを知ることの難しさ。仏教における六道の思想に譬えれば、「餓鬼道」に近いものか?)

*労働の苦しみ(もともとエデンの園では、それはむしろ喜びであった筈ではないのか?)
 
*死の苦しみ(悲惨な死によってしかこれらの苦しみから逃れられない。)

 といった神の罰を与えられました。

 しかし、これらの罰が人間にとって「苦しみ」となってしまうのは、いうなれば皆「相対的観念」に囚われてしまった結果ではないか(?)とも考えます。

 もしかしたら、本当は神は人間に罰など与えてはおらず、神の禁令を破り、勝手に「相対的観念」の囚われ人となった人間が、自分勝手に様々な「苦しみ」を生み出しているだけなのかも知れません。

 そう考えると、神は人間を「エデンの園」から追放などしておらず、この天地宇宙は今も昔も変わらず「楽園」であるのに、「相対的観念」に囚われてしまった人間が、勝手に、苦しみと争いに満ちた「相対的世界」を作り上げてしまっているだけなのだ、といえるのかも知れません(飽くまでも自分の勝手な解釈ですが・・・)。


 もしも人間が、真に「相対的観念」から脱却し、完全に「絶対的境地」で生きることができたとしたら・・・、この世は争いのない「絶対的天地」となり、そこはまさに「エデンの園」のような、苦しみすらない「楽園」になるのではないだろうか?・・・。
 
 色々と空想は止みません。
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