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新性能電車の幕開け第5話 特急電車151系の発展

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交通技術1960年2月号から引... 交通技術1960年2月号から引用
昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきました。
ここにきて、特急こだまは、2・3等車蚤の編成でありながら冷暖房完備であるのに関わらず、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、「つばめ・はと」をどうするか検討されました、まだ当時は客車にするか電車にするか決まっていなかったのでした。
EH1015が歯数比を変更して高速試験が行われたのも、そうした理由からでした。
結果的には、昭和34年7月に高速試験で151系が163km/h記録するに及んで、「特急つばめ・はと」も電車化して共通運用を図る方針が決めらたと言います。

そこで、計画では、電車の編成は12両編成で、モーターは6両までに抑えられることになりました。
これは沼津以西の電力事情があったからと言われています。(昭和35年2月、交通技術2月号)
なお、1等展望車に代わる特別2等車の設計は時間がかかるため、比較的設計のまとまりやすい2等電動車4両(モロ151・150各2両)と3等付随車(サハ150 4両)を使って昭和34年12月から、「特急こだま」は12両編成化されました。
その後、第2次増備車として、サシ151、クロ151が落成して、順次こだまの編成も置き換えられて最終的に、「特急こだま」と「つばめ・はと」は共通運用されることになりました。

特にクロ151は展望車に代わる車両として非常に特徴的で、4人区分室と一人掛座席14脚を備えた開放室からなり、中央部に設けられた出入り口があり、車端にはサービスコーナーが設けられていました。
設計当初は、進行方向に向かって27度斜め外向きが定位として設計され、足載せ台が設置されていました。
改良型では、椅子と一体型になっていました。
また、壁は吸音効果を期待して織物貼りになっていたそうで、車両における織物を貼った例は国鉄では100系新幹線にも見ることが出来ました。
座席の上には厚さ8㎜の強化ガラスによる幅80㎝の荷棚が設けられていたそうでした。
なお、区分室は車体幅いっぱいを使ったもので、乗務員通路部分とは床に設置したマガジンラックでかろうじて区分される程度であり、ひかり天井方式、荷棚はハットラック式となっていました。
JR東日本が253系で区分室付のグリーン車を連結していた時期がありますが、この区分室では、完全に通路とは仕切られる形となっており、クロ151と比較すると狭苦しく感じられたものでした。

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新性能電車の幕開け第4話 特急電車151系の誕生

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画像 wikipedia 15... 画像 wikipedia 151系特急電車
昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。
特に、運転台が低くなることが万が一の事故の場合どうするのかとか、見通しが悪くなると言う問題提起がなされたと言います。
また、連接台車に関する保守も保守部門からは不安が有ったそうです。
当時は、お役所以上に固いと言われた国鉄ですが、この高速試験は結果的には大成功であり、最終的に3000系で培われた軽量化の技術

この時は、101系も試験に供されました、台車も試作の空気ばねを装着し、歯数比を変えた特別仕様で135km/hを記録しました。
最初は物議をかもした、小田急3000系の借り入れですが、結果的には多くの貴重なデータを提供することになりました。
連接台車については、国鉄では591系誕生まで持ち越されることになりましたが、こうしたデータは新幹線建設のための基礎データを提供したと言われています。
また、昭和33年には国鉄としても101系に搭載されたMT46モーターを搭載した日本初の特急電車として151系を誕生させることになりました。
151系は小田急の車両を参考にしたと言うよりも、国鉄独自の軽量設計の集大成と言うべき存在でした。
特に、それまでは食堂車・展望車など1等車の一部にしか設置されていなかった冷房装置を3等車にまで広めた功績は大きく、車両に取り付けるユニットクーラーをサロ85に設置して試験が行われた他、101系には試作空気ばねでの試験などが行われ、10系客車なで採用された軽量車体を含めて、当時の国鉄における技術の延長線上にあった車両でした。

また、高速運転を考慮して運転台を上げた独特のボンネットスタイルはヨーロッパのTEEなどを参考にしたとはいわれていますが、優雅にまとめられており、国鉄の黄金時代を彩る列車として、また戦後の復興のシンボルとしても評価に値する列車と言えましょう。
当初は、特急「つばめ・はと」を置換える予定はなく、あくまでもビジネス特急としての計画であったことから、3等車のみの編成で計画していたそうですが、途中からやはり2等車は営業上必要であると言われて設計変更がなされその格差に苦慮したと言う記述が星晃氏の回想録などで出てきますが、その時に試作されたものの一つにシートラジオがあったそうですが、当時はイヤホンを一つ一つ消毒していたそうで(持ち帰り式の安いイヤホンではなかった)その手間が邪魔だったことや携帯式のラジオが普及したことで廃止になったと言われています。
当初は、あくまでもビジネス特急としてのスタートであり、当初は8両編成でスタートしますが、完全冷暖房の車内は好評を持って迎えられ、昭和34年には増備が始まり、編成は12両まで拡大、その後本格的に特急「つばめ・はと」も客車ではなく、電車で置き換えようと言う話となり、それまでは優等列車は客車による機関車牽引と言う意見は姿を消し、電車による置換えが検討されることになるのですが、その辺りはまた別の機会にさせていただきます。

80系試作車による冷房試験に関しては、下記も参照ください。旧型国電と冷房
鉄道ジャーナリスト blackcatの鉄道技術昔話
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新性能電車の幕開け第3話 小田急SE車による高速試験

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小田急SE車 3000形初代 小田急SE車 3000形初代
本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。

1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車
小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。
当初は、鉄道技術研究所の協力で開発が始まったそうで、完成後は小田急線内で最高速度を出せるところがなかったので、これまた国鉄で試験をさせて欲しいということになったそうです。
 国鉄の部内にも私鉄の車両を借り入れることに対して反対意見も多かったそうで、借入費用が大きくなることや、車両自体が信託(住友信託銀行)されていたこともあり、最高速度は設計最高速度である145km/h以上出さない様に事前に取り決めたり、「高速試験」自体に保険をかけたり、145km/hにおけるブレーキ距離が600mを越えることから運輸省の特認が必要といった手続きもあったと言われています。
また、国鉄として私鉄の車両が走ることは面子が立たないと言った意見もあったそうですが、詳細は省きますが、個々の調整も進み、小田急と国鉄の間で貸借契約が交わされ、下記の日程と場所で試験が行われることになりました。

9月20日~9月26日
  大船~平塚間の旅客下り線
  ロングレールを敷設した、モデル軌道区間を含む当時として最も軌道の良い区間で、架線も高速集電に有利なコンパウンド・カテナリ架線方式

9月27日・28日
  函南~沼津間の下り線
  普通の状態の保線区間で、架線も従来のシンプルカテナリ式架線方式

試験の結果、従来車両に比べて横圧(レールを外に押し出そうとする力)でありこの力が大きいと軌道の狂いが生じるため小さい方が好ましいことになります。
従来の車両では4t程度あったものが2.5tと軽減されていることが確認されたと言う記述がなされています。

集電に若干問題が残ったことや、高速度でのブレーキの利きが悪くて600mを越えたことなどの若干の問題点もあったそうですが、概ね初期の性能は確認できたとのことでした。
また、流線形の効果による空気抵抗軽減も十分確認されたことから、国鉄としても私鉄の車両を走らせることに抵抗は有ったものの結果的には新幹線に繋がる貴重な資料を提供したと言われています。
実際に、高速度試験での離線状況などから新型のヘビーコンパウンド式カテナリ―架線が開発されたりしました。
明日からは、新幹線建設のお話に移りたいと思います。

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新性能電車の幕開け 第2話

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八王子市人口 八王子市人口 モハ90(101系)と72系の... モハ90(101系)と72系の比較
引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。
中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。
いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。
これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあっても、昭和8(1933)年6両編成でスタートした中央線は、昭和30年には9両編成まで対応できるようにホームを延長、その後昭和31(1956)年11月には10両編成まで対応可能となったそうですが、抜本的な改善には至っておらず、連日ダイヤの乱れによる混乱があったと記録には残っています。
昭和32年には、東京駅に中央線ホームの改良に着手しホーム拡幅工事を行ったと記述されています。
改善案として、旧形のモハ72形電車に代えて、新性能電車(101系)を導入することで、時間短縮が図れるとして計画されたのでした。
当初の計画では、オール電動車で製作する代わり、加速度は3.2km/h/sec 減速度 4.0km/h/secで、130cmの両開きドア併用で、運転自分の短縮が図れるとしていましたが、
実際には、オール電動車にすることでピーク電流(ノッチ投入時にかかる過電圧)の増大やこれに伴う架線電圧の降下などもあり変電所を強化する必要があり、その費用だけで役10億円(昭和32年当時)であり、それ以外にも性能に合わせて信号設備なども最適化を図るとなるとその経費も膨大になることや、旧形国電との混用ではさほど高加速があっても使いづらいと言うことから。当面は、出力を下げてMT比を下げる手法が取られました。
当初は8M2Tその後6M4Tとトレーラーの両数を増やす形で性能は最終的には旧形国電とさほど変わらない2.0km/h/secになってしまいました。
それでも、当初は将来的には電動車化するとのことで付随車(サハ)も動力台車を履くこととなり、DT21T(Tはトレーラーの意味)と呼ばれる電動車用台車を履き、また一部のサハにはパンタグラフの設置のための準備工事なども行われていました。
この失敗に懲りたのか、それ以降は国鉄では電車の起動加速度を積極的に公表することはありませんでした。
現在のN700系の加速度2.6km/h/secであり101系よりも速いことになります。

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新性能電車の幕開け 第1話

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直角カルダン駆動 Wikipe... 直角カルダン駆動 Wikipedia参照 WNカルダン駆動 Wikipe... WNカルダン駆動 Wikipedia参照
本日から、新性能電車の幕開けとということで南海かに分けてお話をさせていただこうと思います。
しばしお付き合いくださいませ。

1)今までの常識を変えた湘南電車
昭和25年に「運行を開始した湘南電車は、今までの電車の常識を覆すこととなりました。
それまで、電車は振動も多く長距離の移動には向かないのでせいぜい60km程度までの距離を走るものと思われていました。
 100km以上の距離を走る湘南電車は、電車の新しい可能性を示すものと言えました。
80系電車は性能的には吊りかけ駆動のため、分類上は旧型国電ですが、電車による可能性を広げたことは間違いありません。
2)新駆動方式による高性能電車の誕生
昭和27年には、新しい駆動方式、カルダン駆動が国鉄の電気式気動車キハ44000形でが初めて採用され、45kWモーターを駆動する方式が試験的に採用されたました。
 しかし、閑散線区に電気式は不利ということから、電気式気動車は、全車液体式に再改造されましたが、日本初であることには変わりありません。
翌昭和28年には、東武の5700系が直角カルダン駆動方式でデビュー、京阪1800系はWN駆動としてデビューするのですが、東武5700系が初期故障に巻き込まれていた中で、京阪は完成後直ちに営業運転に使われるなど安定した走りを見せました。
ということで、新性能電車(カルダン駆動)の最初の営業運転は京阪ということになりますが、この頃から私鉄では積極的に新性能電車(当時の表現を借りれば)を導入が検討されていきました。
3)眠れる巨人、国鉄
国鉄でも、新性能電車の設計は検討されましたが、その動きは緩慢で、昭和28年当時は63形電車から72形への改造が昭和26年の桜木町事故から行われており、昭和27年当時も半鋼製のモハ72形電車が増備されていた時代でした、全金属タイプの72形電車が登場するのは昭和31年まで待たねばなりませんでした。
しかし、昭和31年頃、大手私鉄は着々と新しい電車を導入して、近鉄では奈良線用として800形を増備したり、阪神でも3011形がジェットカーとして新性能電車が運転を開始していましたが、巨像はまだ、目覚めないと言った状況になっていました。
国鉄の新性能電車がデビューするのは、昭和32年に登場するモハ90系(後の101系)まで待たねばなりませんでした。
101系については、みなさんもよくご存知と思いますが中央線の慢性的遅延を解消するために導入が検討されたものであり全車電動車で当初は3.2km/hの加速を計画していました。
 
続く


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高速鉄道の可能性を求めて

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広軌高速鉄道建設要綱(案)にな... 広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号
本日から、高速鉄道の可能性についてと言う話題でお話を進めて行きたいと思います。
戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京~福岡などは、特急1等運賃で東京~博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)
利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。
 そのような中、輸送力の拡大(特に東海道線)は喫緊の課題だったのです。
 当時、国鉄本社の予測では、現在の経済成長が続く限り、東海道本線の輸送力は昭和39年頃には飽和状態に達するであろうと考えられていました。
 その解決策として、東海道本線の全線複々線化による解決策を模索していました。
 昭和21年当時にも戦前の弾丸列車の復活を提唱する意見もありましたが、新幹線の実現と言うのは夢のまた夢と思われていました。
 そんな折、鉄道技術研究所【現在の鉄道総研】が昭和32(1957年年)5月30日に銀座山葉ホール「東京~大阪間3時間」の構想を発表した時は大変な反響がありました。
 画像は、昭和31年交通技術に掲載された「広軌幹線の構想」に掲載された、広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号
 高速鉄道建設の話題は、新聞にも大々的に扱われたため、85%以上の人が知っていると答えたと言われています。
 だた、本社としては、鉄道技術研究所が勝手なことをしたといって物議を醸したとも言われています。
 当時、本社では鉄道技術研究所という組織は、あくまでも付属物であり、本社の命令で動いていればよい、そんな風潮がありました、しかし、東海道線改良の抜本的対策は新幹線しかないという信念を持って、かつその実現の推進に尽力したのが、十河信二国鉄総裁でした。
 なお、十河総裁については改めてお話をしたいと思います。
 ちなみに、国鉄当時の運転速度では、3時間10分運転であり、3時間ではないと言うご意見もあるかもしれません、当初の計画では、京都停車は想定していませんでした、ところが、世界的観光地である京都を通過させるのは問題があるという経営的判断から停車が決定したと言われています。
 それにより当初は東京~大阪3時間運転の予定が、3時間10分に延長となりました。
 京都通過の列車が誕生したのは、平成元年にデビューした「のぞみ1号」東京発の列車で、途中新横浜以外は全て通過と言う過激な?運転でしたが、その後は名古屋財界の猛反発もあり、現在の形になったのはご存知のとおりです。

参考 http://library.transport.or.jp/

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景気循環と国鉄 第3話 特急あさかぜの誕生

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参照 wikipedia 昭和... 参照 wikipedia
昭和31年運転当初の時刻表
昭和31年に、「特急あさかぜ」は旧形客車を連ねた編成で誕生します。
荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。
当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。
考えられた案は下記の3つ
1)東海道夜行+山陽昼行特急とする案。(東京発は深夜になる)
2)つばめ・はとに続行する形で、山陽区間を夜行にする案(昼間の走行時間が長くなる。
3)大阪を深夜に通過するダイヤとし、東京を夕刻、博多には到着する案

3案は、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが、関西始発の九州方面急行列車「玄海」・「天草」を同時に登場させるということで、本社に言い切られる形でダイヤは決定したといわれています。
実際には、旧形客車で運転されていましたので、列車が停車すれば自由に乗り降りできる状態でしたので、大阪駅を2:00に客扱いすると言うことが行われていたわけです。
余談ですが、国鉄時代は、寝台急行列車の場合は、停車駅では客扱いをしていましたがこれも、旧形客車で運転されていた頃の名残です。

当初は、大阪が非有効体時間帯になることへの危惧もありましたが、宇年開始してみると、好評で、切符が取れない列車と言うことでむしろ話題になり、昭和32年7月20日からは「特急さちかぜ」が設定され「あさかぜ」に続行する形で運転されました。

誘発需要や急行列車からの転移もあったかもしれませんが、それ以上に飛行機の深夜便(ムーンライト)からの転移が大きかったのではないかと言われています。
当時ムーンライトは、博多~羽田間に飛んでおり、夜2:35頃出発し、大阪空港を経由して、朝の5:30頃に羽田に到着する便と、東京を3:20に出発し、博多に6:15に到着する便があったそうですが、定員60人に対して20人程度しか乗らないことも多くなったという記事が国鉄線の記事の中にかいてありました。

昭和30年代は、景気拡大に支えられ、人や物の動きは活発化、一方では高速道路の建設も進められることから、輸送力のさらなる拡大(特に東海道線)は喫緊の課題としてクローズアップされていくのでした。

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景気循環と国鉄 第2話 経済の発展と国鉄

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151系 国鉄のパンフレットよ... 151系 国鉄のパンフレットより
画像引用 Wikipedia
昨日も書きましたが、朝鮮動乱に伴う外貨の獲得は日本に好景気をもたらすきっかけとなり、昭和29年からは神武景気と呼ばれる好況な状況が作り出され、貨物・旅客ともに需要は増えていく状態でした。
 そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。
投書投入されたのはキハ01と呼ばれる気動車で、戦時中に不要不急路線として撤去された白棚線復活用の車両として計画されたものですが、ご存じのとおり白棚線はその後専用道で復活することとなりましたが、白棚線に代えて、木原線(現在のいすみ鉄道)に投入することとなりました。
 模型等で見られた方も多いと思いますが、キハ01は両端にドアがあるタイプで、これは元々路面電車タイプで復活させることを目的としていたからだと言われています。
 当時は、自動車も発展途上の時代でしたが、既にその頃から地方ローカル線の扱いには国鉄も経費節減に努めていた他、地域特別運賃の導入や、レールバスの導入といったあらゆる経営努力はしていましたが、実効は上がらなかったようです。

「戦後は終わった」の合言葉とともに、始った30年代、巷では神武景気、更にはその後なべ底不況を経て、昭和33年6月から昭和36年12月まで続く岩戸景気に繋がってといわれた好景気に支えられ、国民経済は大きく発展しました。
 当時は投資が投資を呼ぶと言われ、マネービルという言葉が使われ出したのもこの頃でした。
 マネービル、ボディビルを真似た造語のようで、証券会社が積極的にこの言葉を使っており、当時家風呂が無かったのでよく銭湯に連れて行ってもらったのですが、銭湯の洗い場の鏡などに証券会社の宣伝が入っていて、マネービルという言葉が書かれていて、幼稚園児であった子供には何のことか理解できなかったと言う思い出があります。笑
 サザエさん(原作)でも、マネービルという話題が出てくるのもこの頃で、空前の投資ブームと言われました。(今のビットコインのような感じでしょうか)
 そうした好景気に浮かれる話がある反面、森永砒素中毒事件や、水俣病(当時は、原因は不明の精神疾患が多発と報告されていた。)などの食品に関する事件が起こっていた時期でもありました。
 この辺は、本題から外れますので省略させていただきます。

 話題を鉄道に戻しますと、昭和31年11月には最後まで非電化で残っていた米原~京都間が電化され、東海道線は全線電化が完成。
 これによりC62やC59など特別幹線用機関車はその活躍の場を山陽本線に移すとともに、東海道区間は快適な電化の旅となり、特別急行用の機関車には、淡いグリーン(通称青大将塗装)のEF58が客車とともに準備されました。
 当時は、現在と比較にならないくらい貧富の格差が激しく、特急は特別な人が乗車する列車であり、一般庶民は急行が最も早い列車と言われていました。
 その代わり、編成の半分以上が1・2等車(現在のグリーン車)という徹底ぶりで、(普通車は3等の時代です。)食堂車には、2等車以上の客しか入れないそんな風格のある列車でした。
景気拡大が続く中、昭和33年には、動くホテルと揶揄された、20系客車が151系「こだま」とともに、デビュー、ビジネスライクなこだまに比べ、個室寝台を1等座席車、食堂車などからなる全室冷暖房完備の車両は庶民の憧れと言えるものでした。
完全冷暖房、固定窓による快適な車内はたちまち人気となり、こだま同様切符の取れない列車として有名になりました。

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景気循環と国鉄 第1話 神武景気と鍋底不況と国鉄

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いただき物の画像から モハ52... いただき物の画像から モハ52形電車
京阪神急行を走ったモハ52もこの時期になると都落ちして飯田線に転出していった。
今回は、オリジナル記事として神武景気と鍋底不況と国鉄と言うことで書かせていただきます。
日本史で聞かれたことはあるかと思いますが、神武景気は昭和29(1954)年 12月から 昭和32(1957)年6月まで 31ヵ月間続いた好景気の俗称ですが、国鉄も、好景気を受けて第1次5か年計画がスタートするのは前述した通りですが、その原資となるべく運賃値上げは当初18%で申請しますが、運輸審議会の答申でその値上げ額は15%に圧縮され、さらに国会審議を経て13%に圧縮されたと言われています。
そこに来て、第1次5か年計画の当初に国際収支の悪化を端緒とした、公定歩合の引き上げが5月を始め、金融引き締めを強化したことで景気は後退、不況期(後になべ底不況と呼ばれる)に入りました。
これにより、鉄道輸送も大幅に後退を余儀なくされ、好景気を元に組んでいた予算ベースで比較すると、旅客収入で10億円、貨物収入では30億円の不足、計40億円の収入不足が見込まれるうえ、利子支払いの増加(約14億円)や、物件費などの増加(120億円)に入り、国鉄としては、初年度から計画にかなり無理が生じる形となりました。

その後、昭和33(1958)年7月からは日本銀行の金利引き下げと国内消費の回復で岩戸景気と呼ばれる景気回復局面に入りました。
この時は、積極的に工場などが建設され、投資が投資を呼びと言われた時代でしたが、国鉄の場合は輸送量の増加以上に人件費の増加、更に支払利子の増加が大きな足かせになったと言われています。
当時は人件費だけで100億円毎年増加し、利子払も34億円の増加したという記録があり?。
人件費の増加はいびつな年齢構成にあることがこの頃から指摘されており、適切な人員配置などの合理化がなかなか進まなかったことも原因と言われています。
どうしても趣味誌ベースで考える部分だけでは見えてこない、問題がいくつか潜んでいるように思えてなりません。

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高度経済成長と輸送力増強 第4話 昭和36年10月改正と全国特急網の完成

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昭和36年10月ダイヤ改正 伯... 昭和36年10月ダイヤ改正 伯備線 準急しんじ
宇野発博多行き
「もはや戦後ではない」が合言葉となった昭和30年代、国鉄では昭和33年に初めて特急電車「こだま号」により6時間半で東京~大阪間を走破するようになりました。
昭和30年代という時代を総括しますと、なべ底不況と言われた景気調整局面は有ったものに、昭和29年から昭和36年12月まで右肩上がりの経済成長を遂げた時代と言えます。
経済成長と公害問題を内包していた時代ともいえますが、経済の成長は確実に個人所得を増やし、三種の神器と呼ばれた(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の購入することが目標となった時代でした。
道路の整備なども進み、高速道路建設が計画される等国鉄を取巻く環境も変わりつつありました。
そんな中、国鉄は昭和36年10月1日に全国白紙ダイヤ改正を行います。
当時の部内誌(国鉄線)を参照しますと、このダイヤ改正は3年前から準備されたとのことで、この改正の画期的だったことは全国に一気に優等列車網(特急列車網)を誕生させたことでした。
実際に、本社内でもこれだけの列車を作って大丈夫だろうかととう不安もあったそうですが、積極的な特急増発させた背景には、高度経済成長に伴う大都市間の流動が急激に増加したことや先ほども書きましたが、東名高速や名神高速に代表されるような高速道の建設が決定したことに対する不安でした。
 現時点で積極策に出ないと国鉄の将来は危ういという意識が幹部にあったからだと言われています。
 実際、特急網の充実は目を見張るものがありましたが、特急以外にも、気動車を使ったユニークな列車も設定されました。
 その一例として、
 宇野発(9:30)伯備線・山陰線経由 博多(22:00)行き と言った列車がありました。
 今では考えられないような列車ですが。笑
 
参考 http://jnrera3.webcrow.jp/contact.html

日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
http://jnrera3.webcrow.jp/index.html
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