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東海道新幹線開業前、東海道新幹線支局誕生

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東海道新幹線支局は、東海道新幹... 東海道新幹線支局は、東海道新幹線だけを管轄する組織として10番目の支社として誕生することになった。 新幹線支社は、支社制度廃止後も... 新幹線支社は、支社制度廃止後も東海道新幹線総局として力を持ち続けることになりました。
東海道新幹線は、東海道線の別線として計画され、また国鉄部内でもあくまでも東海道本線の線増部分であるという認識をなされていたようで、新幹線開業前の昭和39年4月までは新幹線局という一部局に過ぎなかったようですが、4月に入って、東海道新幹線支局が誕生しています、その理由について、昭和39年6月の交通技術を参照しますと、新幹線支社は、従来の支社と同様の権限を持つ組織として誕生させる事としたとされています。
少し長いですが、引用させていただきます。

東海道本線(新幹線〉を管理運営する支社東海道本線(新幹線〉を管理運営するための組織として、東海道線新幹線支社が、本年4月1日をもって設置された。新幹線は、10月1日の営業開始を目前に控え、エ事は予定通り着々と進捗しているが開業後の管理運営についても万全の体制を整え、自らの責任において遺憾のないよう諸問題の検討と解決を図るため、開業半年前に発足することになった。
新幹線は、周知の通り、国の大動脈である東海道本線の輸送力不足を解決する抜本的対策として誕生するものであるが、4000億円に及ぶ巨大な投資を要し、その運営の如何は国鉄経営に重大な影響を与えることになる。従って、その管理運営の基本的フアクターと『る組織については、国鉄本社内に設けられた東海道新幹線開業準備委員会(委員長副総裁〉において慎重に審議検討を行ない、国鉄理事会において決定されたものである。すなわち、「東海道本線(新幹線〕全線を一体的に管理運営することとし、そのために東海道新幹線支社を新たに設置する。また、その権限については続ね現在線支社と同等とする」こととなった。


ということで、東海道新幹線は、当初の東海道線の線増>という位置づけから離れて、独自の組織として運営させろ・・・と言う形に変わっていったと言えます。
本来であれば、東海道線の別線ですから、鉄道管理局の権限なり各支社の担当でも良かったはずです。(当時は、全国を9つの支社とその下に管理局がぶら下がる組織になっていました。)
注:広島・四国・新潟は支社が管理局を包括していました。
支社制度は、本社の権限を大幅に委譲したもので、本社はどちらかと言えば調整機能を持たせると言うもので、現在の持ち株会社に近いものでした。
なお、当初は、広島支社は九州の西部支社に。四国は関西支社に、新潟は関東支社から分離したものであり、発足当初は6支社体制であり、この仕組みが分割民営化のモデルになったと言われています。
そこに、新幹線だけを管轄する組織として新幹線支社が誕生することとなったのでした。
これにより、人事を含め各支社は新幹線に対して直接介入することが出来なくなり、1970年8月15日に支社制度が廃止された後も、新幹線支社は東海道新幹線総局(山陽新幹線開業後は新幹線総局)として存続し、その後山陽新幹線開業でさらなる巨大な組織となっていきました。
国鉄は本社があって、管理局なり総局はその下部組織というイメージをもたれる方も多いのですが、実際には大規模局などでは本社のコントロールがしばし効かないと言った問題もあったと聞いたことがあります。
実際に、東海道新幹線支社は支社制度がなくなったときに、新幹線総局に移行して組織は存続、その後山陽新幹線開業では博多までの管理を一元で行う等その組織は更に強大なものとなっていくのですが、その辺は新幹線開業とは関係ない話ですので割愛させていただきますが、新幹線総局は組織を温存したまま、JR東海に移行、新幹線運行本部として現在も山陽新幹線を含めて一括の管理運用を行っているのはご存じの通りです。
余談ですが、その後開業する東北・上越新幹線は、新幹線総局の管理では無く管理局単位の管轄となっており、JR東日本にもそのまま引き継がれています。

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新幹線開業前 試作車1000形のお話

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新幹線0系のシンボルとも言える... 新幹線0系のシンボルとも言える光前頭 各種座席が検討された 各種座席が検討された
新幹線1000系は2種類が試作されました。
これは、すれ違い試験の確認を行うためのものであり、最小編成として2+4両で計画されました。

本日は、この2両が製造され前に検討された仕様書について当時の資料を参照しながら説明を加えていこうと思います。
新幹線車両の概要
なお、車両の製作には下記のような条件が定められました。
当時の1961-08_交通技術を参照しますと概ね下記のようになっています。
抜粋しますと。

1)車体幅 約3,350mm
2)高さ  レール面上3、950mm
3)車体長さ 自連間長さ25m

 「車体長さについては特に規定はないが定員乗車時の車両重量を60tにおさえることになっているため、おのずから制限される」と記述されていました。
余談ですが、現在の東海道・山陽新幹線の場合は48tに抑えられていますが、この理由は270km/hにおける振動・騒音の係数が0系220lm/hとほぼ同じであったからだと言われています。
検討された列車の座席
客室設備については、昭和36(1961)年時点では検討中とされていますが。運転時間が3時間程ですので、ビジネスライクな車両として計画されたようです。
結果的には、1等車(現・グリーン車)は2人掛け、2等車(現・普通車)は2+3人掛けに最終的に決定されるのですが、この辺に関しては、下記のように書かれています。
少し長いですが、全文引用させていただきます。
 
優等車・普通車の別、食堂車またはビュッフェの必要性4人掛・5人掛などについては検討中で、まだ結論は川ていない。しかし車体幅が現在線にくらべて400mm程度広いので、たとえ5人掛にしてもゆっくりした寸法をとることができる。運転室のない車両では5人掛で1両定員100名程度となる。

と書かれており、ビジネス需要も多き新幹線であるから、5人掛けにしたいと言う思いはあるようです。

ただし、現在のグランクラスに相当するパーラーカーの設定は運転時間が3時間ほどということもあって見送られたようです。
余談ですが、国鉄でもパーラーカーの新幹線開業後の運用には苦慮していたようです、実際は4年ほどで製造費を回収する事が出来るほど、高収益を上げたため、その後は普通車でも全く問題は無かったと言われています。
ボンネットの中身は?
また、特徴ある新幹線のボンネットですが、飛行機の機体に範をとったような形になったわけですが、風洞試験などを繰り返して形状が決められたと言われています。
なお、ボンネット内にはATC受信装置・ATC制御装置・列車無線装置(受信・発信部)およびこれらの電源となる直流→交流変換装置などが取付けられることになっていると記述されています。
また、冷房装置は、こだまと同様ユニット方式で天井に取付けるが、新幹線では二重屋根としてその中に空気調和装置を入れ、屋根の形状を平らなものとするとなっており、屋根上のスリットは0系新幹線の特徴と言えましょう。
なお、0系では従来の151系などのユニットクーラー方式では無くヒートポンプ方式が採用されました。
客室の構造に関しては、客室窓は固定窓、出入口扉はプラグドアが計画されていたようですが、量産車では一般的な戸袋方式のドアになっています。
300系でも初期に製造された車両はプラグドアを採用しましたが、その後J16編成以降は通常のドアに戻りました。
さらに、試作車の計画では、「床から下にスカートを取付けることを原則にして床下機器配置を考えている。」と言う記述があり、床下側面の走行時の乱流を減少させるためと、床下取付の電気機器冷却用空気の取入れもスカート外側の埃の少ない所からにするための2点を考慮に入れている。」という記述がありました。
ボディマウント構造までは考えていないようで試作車も、量産車も長めのスカートは見送られました。
なお、本格的なボディマウント構造の車両は200系まで待つことになりました。
新幹線で始まったトイレのタンク化
「便所・洗面所に関しては2両に1ヵ所に集中して設ける事が最初から計画されており、その位置は2両1ユニットの中間付近となろう」と書かれています。
在来線が垂れ流しの状況であったとき、新幹線ではさすがに200km/hで垂れ流しというわけにも行かず、汚物・排水はすべて汚物タンクに収容する事とされました。
ただ、当初は単純にタンクに溜めるだけの方式であり1往復すると満タンにと言うこともあり、その後循環式が開発されて現在に至っています。
いくつかの案が出された新幹線座席
そして、新幹線の特徴としては、座席もいくつか試作されたようで、在来線の普通車の4人向かい合わせをそのまま新幹線に取り込んだタイプや、回転式座席(背ずりの上下が回転する方式なども考案されましたが、最終的には2等車は転換クロスシート、1等車は2人掛けのリクライニングシートとされたのは、よくご存じのことだと思います。
余談ですが、昭和50年頃、シルバーシートを設定するときに首都圏の電車では、シートをグレーのモケットに張り替えましたが、これは大量に余剰があった新幹線のモケットを流用したものだと言われています。
閑話休題
0系新幹線と光前頭
他にも、初期の新幹線を象徴するものとして、前頭部が光る、光前頭がありました。
これは、カバーの中に蛍光灯を入れて照らすようにしたもので。
最後尾の場合尾灯の光が回り込んでボンネット全体が薄赤く光っており幻想的でした。
ただ、FRPであったため走行中の衝突などでの破損も多かったようで、途中から光前頭方式は中止され、カバーもより強固なものと置き換えられてしまいました。
現在は大宮の交通博物館に保存されている0系は光前頭を装着していますが、元々大阪保管していたらしいので、京都で保存されている0系にこそ光前頭を復元して欲しいと思っています。苦笑

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新幹線開業前 モデル線の建設

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モデル線区を走る新幹線試作車 ... モデル線区を走る新幹線試作車 交通技術から引用 新幹線の構体試験並びに台車試験... 新幹線の構体試験並びに台車試験 交通技術から引用 A編成 交友社 電車のアルバム... A編成 交友社 電車のアルバムⅠから引用 B編成 交友社 電車のアルバム... B編成 交友社 電車のアルバムⅠから引用
モデル線の建設
東海道新幹線の建設に際しては、初めてのケースであり十分な安全性や問題点を洗い出すために、一部区間を早期に完成させる必要がありました。
モデル線区とされた区間は、神奈川県綾瀬市~小田原市鴨宮の間であり、昭和35年4月に路盤工事に着手し、鋭意工事が進められたそうで、一部家屋の移転が遅れたという記述もありますが、昭和37年37年3月までに路盤工事が完成、3月15日からは新幹線の軌道及び電気工事の起工式が鴨宮軌道基地で挙行されました。
また、4月20日には、新幹線用の試作電車第1号の試験調査及び乗務員の養成を行なう目的で、鴨宮にモデル線管理区が設置されて、5.23 には、モデル線での試験計画が決定しています。

後述の新幹線試験用車両は、4月25日にA編成(汽車会社製)が搬入され、B編成は、5月18日に搬入されています。
なお、昭和37(1962)年6月26日には、待望の試運転開始式が開催され
交通技術誌によりますと、「10時から来宮神社の宮司により、新幹線工事の完成と試験無事を祈る諸神事が行われ、その後、十河信二総裁の訓示があり、第1号試験運転電車は国鉄総裁・島技師長・大石新幹線総局長など国鉄関係者多数を乗せた4両編成(B編成)に乗車、午前10時45分、モデル線管理区長の発車合図で基地を発車、基地より約10kmの地点で試験を終って、再び基地に引返し、約40分にわたった初試運転を無事終った。 」
と書かれています。

これにより、東海道新幹線はこのモデル線区を中心に乗務員訓練などが進められることになったのです。
なお、この区間をモデル線区とした理由は、橋梁・トンネル、盛り土区間など新幹線のおよそ考えられる条件が揃っていたためであり、東京からも比較的近い事も決め手になったのでは無いかと思われます。

新幹線の試作車両

東海道新幹線は、昭和39(1964)年に開業するわけですが、その試作車A編成・B編成が試作されたのは昭和37年でした。
本日は、新幹線試作車に関するお話を少しだけさせていただこうと思います。

2種類試作された新幹線車両
新幹線電車は、特段新しい技術を開発した部分よりも既存の技術を積み上げて作られた部分が大きいものでした。
在来線(狭軌)でクモヤ93000号 電気試験車)が日本最高速度である175km/hを出したこともあり、広軌で200km/hは問題ない事は確認されていましたし。
電車の制御方式も在来線の交流機関車で確立した制御方式(低圧タップ切換方式)を採用するなど既存技術の延長によるものでした。
試作車の仕様を当時の交通技術昭和36年8月号の記事から引用させていただきますと。
「試作車両は前述の通り量産旅客電車に移行するために未解決の問題を調査試験によって究明するためのもので単なる試験研究のためのものではない。」
と記されており、あくまでも量産を前提とした車体構造などが求められるとしていました。
実際には試行錯誤が重ねられていたようで、X形の補強を入れたタイプが作られたり、車内に関しても、転換式クロスシートや、シート全体が回転する方式であったりあらゆるタイプが試作されたようです。
ただ、運転時間が3時間(開業当初は4時間)運転であったことから食堂車の連結は見送られ、その代わりにビュフェが連結されるなど、運転開始当初の「こだま」と同じようなイメージでしょうか。
車両は、昭和35(1960)年12月末には中間車が浜松工場で完成し、翌年1月14日から21日まで構体試験が行われたと記録されています。

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