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高度経済成長と輸送力増強 第4話 昭和36年10月改正と全国特急網の完成

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昭和36年10月ダイヤ改正 伯... 昭和36年10月ダイヤ改正 伯備線 準急しんじ
宇野発博多行き
「もはや戦後ではない」が合言葉となった昭和30年代、国鉄では昭和33年に初めて特急電車「こだま号」により6時間半で東京~大阪間を走破するようになりました。
昭和30年代という時代を総括しますと、なべ底不況と言われた景気調整局面は有ったものに、昭和29年から昭和36年12月まで右肩上がりの経済成長を遂げた時代と言えます。
経済成長と公害問題を内包していた時代ともいえますが、経済の成長は確実に個人所得を増やし、三種の神器と呼ばれた(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の購入することが目標となった時代でした。
道路の整備なども進み、高速道路建設が計画される等国鉄を取巻く環境も変わりつつありました。
そんな中、国鉄は昭和36年10月1日に全国白紙ダイヤ改正を行います。
当時の部内誌(国鉄線)を参照しますと、このダイヤ改正は3年前から準備されたとのことで、この改正の画期的だったことは全国に一気に優等列車網(特急列車網)を誕生させたことでした。
実際に、本社内でもこれだけの列車を作って大丈夫だろうかととう不安もあったそうですが、積極的な特急増発させた背景には、高度経済成長に伴う大都市間の流動が急激に増加したことや先ほども書きましたが、東名高速や名神高速に代表されるような高速道の建設が決定したことに対する不安でした。
 現時点で積極策に出ないと国鉄の将来は危ういという意識が幹部にあったからだと言われています。
 実際、特急網の充実は目を見張るものがありましたが、特急以外にも、気動車を使ったユニークな列車も設定されました。
 その一例として、
 宇野発(9:30)伯備線・山陰線経由 博多(22:00)行き と言った列車がありました。
 今では考えられないような列車ですが。笑
 
参考 http://jnrera3.webcrow.jp/contact.html

日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
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高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄

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高速鉄道として新幹線の建設が第... 高速鉄道として新幹線の建設が第2次5か年計画の目玉となりました。
昨日は、地方納付金の話にお話がずれたのですが、その辺のお話はまた改めてお話をさせていただくことになるかと思います。
 再び第一次5か年計画のお話に話題を戻したいと思います。

 第一次5か年計画は、老朽資産の取替という目的だけは100%達成し、動力近代化(蒸気機関車を1975年までに全廃し、電気もしくは内燃機関による運転に切替)の端緒も開けましたが、肝心の輸送力増強が追い付かず、昭和35年までで20%程度であったと記録されています。
結果的に輸送が行き詰まり運輸収入が伸びないので、現金が不足することとなり、経済成長に伴うインフレで人件費の向上や物件費の高騰もあいまって、当初予算は昭和35年度で枯渇、昭和36年度を初年度とする新たな5ヵ年計画が立てられることとなりました。

 ここで、注目していただきたいのは、輸送力増強計画は、時の政府の意向に沿って計画されているということです、この点は特に注目しておいてください。
 第1次5ヵ年計画の際は、政府の経済自立計画に即応して立てられた施策であり、第2次5ヵ年計画はこれまた、池田政権による所得倍増計画に呼応したものでした。
 これを見ていると、JR東海の葛西氏が仰っていたとおり、計画のための計画をむしろ政府の尻馬に乗って動いており、誰もそれに対して責任を負わない体制が既にこの頃に出来上がっていたのではないかと思える節があります。
 さて、そんな中で、第二次5ヵ年計画では、以下の方針が確認されました。
1. 主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化
2. 経営の合理化

 戦前の老朽化資産(木造客車の鋼体化を含む)の更新はほぼ第1次5か年計画で達成したと言われていますが、蒸気機関車による牽引を電化やディーゼル化による動力近代化などで経営の合理化を図ることを意図していました。
 第2次5ヵ年計画の目玉はなんと言っても、新幹線の建設でありこの点は、章を改めてお話したいと思いますが、新幹線建設は、東京オリンピックの開業に合わせるという、非常にハイスピードな建設が求められることとなり、建設費の急騰もあいまって、国鉄財政を急激に圧迫していくこととなりました。

以下に、昭和39年の運輸白書から、第2次5か年計画の概要が 載っておりましたので書かせていただきます。
 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行ない,これを電車化すること。
 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。
なお、この第2次5か年計画も昭和39年度には頓挫することとなり、昭和40年度から昭和47年度の7カ年の第3次長期計画が計画されることとなりました。
 なお、昭和39年度の運輸白書によりますと、第2次5箇年計画は,38年度でその第3年目を終了し,39年度計画を含めた進ちよく状況は, 全体で69%東海道新幹線を除く一般改良工事では,58%ということでこちらも計画半ばで見直しを図ることとなりました。
こうした事例に対しても、国鉄自らの借り入れ金(財政投融資や鉄道債券による調達)で行われたことがその後の経営を圧迫していくことになるのでした。

参考 昭和39年運輸白書 第3章 重点的に整備増強を図る輸送力 第1節 幹線輸送力の増強 対策一国鉄第2次5ヵ年計画 参照
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa39/ind040301/002.html

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高度経済成長と輸送力増強 第2話 地方納付金と言う名の税金

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宮前駅に進入するキユニ25先頭... 宮前駅に進入するキユニ25先頭の普通列車
 国鉄は、独立採算性という建前を取りながらも、国にすれば、鉄道省時代同様に振る舞われる部分がありましたし。
 実際に国鉄もそうした、鉄道省鉄道局のイメージを持っていたのも事実でした。(運輸省よりも国鉄の方が上であるという意識)
 結果的にそうした意識は、結果悪い方向にも進んでしまいました。
 その一つが、「地方納付金」という税金でした。
 国鉄は、本来であれば、国の機関ですので税金を払う対象にはなっていなかったのですが、地方財政が窮状に在ったとき、政府は国鉄に対して、地方納付金を支払うように求めました。
 当初は、非事業用地のみが対象で、概ね地方の固定資産税に相当する金額を地方への納付金と言う形で支払うこととなりました。
 その後は、事業用地や車両等も対象となり、国鉄の財政を圧迫することになりました。
 結果的に車両を増備すればするほど地方納付金も跳ね上がる仕組みでした。
 なお、国鉄だけではなく、公社であった、電電公社・専売公社も対象になりましたが、国鉄の場合線路や車両も対象となるため一番負担が大きかったのは国鉄であったと言えます。
 本来であれば、国が措置すべきものですが、それを国鉄(電電公社・専売公社)に依存した、また国鉄等もそれに応じざるを得なかったのは残念に思われます。
 
参考 地方納付金とローカル線
http://blackcat-kat.at.webry.info/201701/article_3.html

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高度経済成長と輸送力増強 第1話 輸送力増強

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第1次長期計画では主に、複線化... 第1次長期計画では主に、複線化等に主眼が置かれたが、準急気動車の投入なども行われた。
 今日からは、戦後の老朽資産取替と電化・複線化等による輸送力増強のお話を中心に進めて行きたいと思います。

昭和30年代とはどんな時代だったのか?
さて、ここで技術的な話から少し外れて、昭和30年代のお話をしてみたいと思います。
昭和25年の朝鮮戦争を契機として、日本は本格的に復興の道を歩み始め、昭和30年前後には、国民所得が戦前の水準を上回る水準にまで達し。「もはや戦後ではない」という言葉が言われたのもこの頃です。
重厚長大産業(鉄鋼など)の発展は著しいものがありました。
国鉄ではこれら産業基盤の整備の一環として、動力の近代化と幹線の電化などで対応しようとして、積極的に電化工事等が行われました。
昭和32年には、「第一次五ヵ年計画」が策定されて実施に移されましたが、そのときの基本方針は次のようなものでした。

1. 老朽施設・車両を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
2. 現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を緩和を図り増大する輸送需要に応じるよう輸送力を強化する。
3. サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進

このための投資は5,020億円と言われましたが、この整備に必要な資金は、独立採算の建前上、国鉄が自前で調達しなくてはなりませんでした。
 さらに、国鉄にはこれ以外に新線建設(ローカル線を含む)も担っていました。
このとき、政府が少しでも援助していたならば国鉄のその後も変わっていったかもしれませせんが、
 政府から国鉄にこうした援助を行うということはされませんでした。
 また、国鉄も「政府の現業機関」であると言った意識も強かったように感じます。
 国鉄と運輸省の関係では、国鉄の方が実質的な権限を握っていました。
 JRのATSが私鉄のATSと比較して、簡易なもので整備されたのは、国鉄が自ら規格を作ってそのまま実行すると言ったことが行われたからになります。
整備新幹線などがその典型的な例と言えるでしょうね。
新幹線の規格自体は、国鉄が決めていったわけですから。
そうした点は、かっての「電電公社vs郵政省」の構図と同じものがありました。
特に、国鉄発足時に運輸省の高級官僚の多くが国鉄に移ったこともあり、国鉄>運輸省の意識が運輸省内にも国鉄部内にもあったと言われています。

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交流電化の夜明け 第4話 交流電化の功罪

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写真は485系の電気機器を外し... 写真は485系の電気機器を外した183系仕様ですが、485系は全国の国鉄電化区間(中央東線等一部を除く)に入線できる電車として重宝されました。
〇交流電化のメリット
交流電化のメリットは、地上設備(変電所)の削減、直流では数キロ置きに設置される変電所が数十キロと長くなるほか、高い電圧を流せるので電流量が減少するため饋電戦を細くすることが可能となり、その結果電柱などの構造物も軽くなると言うメリットがあると言われました。
〇デメリット
実際には狭小トンネルなどの場合路盤の掘り下げもしくは新規のトンネル開削などを行う必要が生じたこと、更に当時の国鉄の方針として動力分散化が進められていて機関車列車よりも加減速などでも有利な電車が優先されたことから、メリットよりもデメリットが目立つようになってきました。

 結果的に、在来線における交流電化は、東北本線の黒磯以遠、九州・北海道の一部区間のみとなり。
その後実施された電化区間は既に直流で電化されている区間と区間を繋ぐ部分が多いことから交流電化とはなりませんでした。
例外としては、丸森線を引継いだ第3セクターの阿武隈急行電鉄が交流20000Vで電化して開業したほか、つくばエクスプレス線が茨城県石岡市柿岡にある、地磁気観測所の関係で、交流電化として開業したと言う例を除けば直流電化が選択されています。
福岡市営地下鉄空港線に乗入している筑肥線が九州では例外的に貯狂う電化になっているのは、ご存じのとおりです。
 ただ、新幹線の場合は高速運転で集電容量も大きいことから、直流ではなく交流、在来線よりも更に5000V高い25,000Vで電化されているのはご存じのとおりです。

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交流電化の夜明け 第3話 米原田村間を結んだED30

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ED30 交流技術から引用... ED30 交流技術から引用
昭和35年10月交通技術、北陸... 昭和35年10月交通技術、北陸本線の日d年各館の検討記事から引用
北陸本線は、交流電化されましたが、米原~田村間は非電化としてその間を非電化として蒸気機関車(E10)で連絡したことは前述しましたが、昭和昭和38(1963)年12月28日、米原駅~田村駅間が直流電化され、田村駅の米原寄りにデッドセクションが設置されることとなりったと書かれています。
米原~田村間は小運転の専用機関車を作成すると言うことで、EF55-3の部品を流用して(実際はモーターなど一部のみ)(記事によればEF10という記述もあり)の直流機器と475系の交流機器を使って昭和37(1962)年10月初旬に浜松工場でED30形電気機関車が誕生したそうです。
 この機関車の特徴は低い屋根と、そこに交流機器を無理矢理載せたので、かなり屋根がひしゃげた印象を受けるEF13の近代化版とでも言える車両でした。
 結果的には、試作車は1両のみに留まり、柳ケ瀬線廃止に伴い余剰となったDD50にその任を譲って、鉄道技術研究所で保管されることとなり、昭和51(1976)年に廃車されています。
151系電車の成功以降、高加減速が期待できる動力分散列車(いわゆる電車や気動車)が増えてくると、交流電化のデメリットが目立つようになってきました。
そうです、車両価格が、直流車両に比べると割高になることです。
 特に交直流電車の場合、直流電車に変電所を搭載してるようなものですから、車体は重くなるし車両価格も高くなるのは当然で、その後交流電化が下火になる原因を作ったと言えるかもしれません。

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交流電化の夜明け 第2話 仙山線の成功と北陸本線電化

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ED70 画像Wikipedi... ED70 画像Wikipediaから引用
このとき導入されたのが、交流整流式電動機を採用した直接式機関車ED44(ED90)形と水銀整流器を用いたED45(ED91)形であり、当時はその性能が未知数であったこともあり、両方式が比較検討されることになりました。
当時の資料などを参照しますと、技術陣は当初は直接指揮を本命としていたようです、ただし下記にも書きましたように直接式の場合起動時に整流子(ブラシ)から派手に火花を飛ばしながら走るため、 運用ごとにブラシの清掃や交換が必要となったと言われています。
 その反面重量面では不利になるものの、整流器式は想定以上の性能を示し、水銀整流器の寿命(当初は5年から10年程度と言われていた)や、高周波問題などの問題を解決する必要があったと言われています。
最終的には、水銀整流器を採用したED45が、25‰勾配(1000mで25m上昇の意味)における引出し試験で、ED44が360tの性能であったのに対し、ED45は600t(ちなみに、定格出力はED45 の方が上)を示し、当時のF級直流機関車とほぼ同等の性能を、D形で実現したのでした。
これは、水銀整流器による界磁制御粘着性能の直流F機と同等の性能を示したのは驚きであったと言われました。
 こうなると、交流電気機関車は間接式(整流器式)を中心に考えることとなりました。
 商用数は数による交流電化の目処が付いたことから、国鉄では幹線区間における電化は交流電化で行くことを決定しました。
 その第1弾として北陸線 田村~敦賀間が選定されました。(これは、60Hz区間における交流電化を検証する意味合いもあったようです。)
 昭和32年10月1日 北陸線 田村~敦賀間交流電化完成、(木ノ本~近江塩津~敦賀間新線開通、旧線は柳ケ瀬線として存続)し、ED70形がED45形をベースとして18両製造されました。
柳ケ瀬線に関しては、柳ケ瀬線の廃止を当時の資料から振り返る
http://blackcat-kat.at.webry.info/201707/article_1.html
も併せてご覧ください。
なお、ED70形機関車は、長浜鉄道スクエアに1両保存されています。
特徴ある全面の入口部分が溶接されているなど、原型を崩してしまっているのは寂しいことですが、量産型交流機関車の始祖として永久に保存していただきたい車両です。

昭和34年には東北線黒磯以北が50Hzで電化が始まり、ED70を改良した高出力機ED71が昭和33年の試作機を経て38年まで製造され、長く東北本線の顔として君臨していました。
なお、北陸本線に関しては交流と直流を直接つなげないので、米原~田村間を非電化とし、蒸気機関車(当初はE10)で接続を行っていました、東北本線黒磯では、黒磯駅構内に共用区間を設けて、そこで交直切替えを行う。機関車交換方式をとっていました。(現在、北陸線は敦賀まで直流化されており、デッドセクションはそれ以遠に設置されています。)

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交流電化の夜明け 第1話 商用電化の実用化

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ED4511(画像はED911... ED4511(画像はED9111) wikipediaから引用
仙山線での試験で試用された1両、整流器式を採用しその後の交流機関車の基礎となった。
終戦、そしてGHQにより日本占領が終了した昭和27年、国鉄は輸送力増強そして動力の近代化に前向きに取組こととなりました。
海外に目を向けてみると、昭和26(1951)年フランスが商用周波数による交流電化(それまでは16 2/3と言う特殊な周波数を使っており、変換装置などが大掛かりなものとなり、決してコスト的に安いものではなかった)が完成したとのニュースは、日本における交流電化に向けて大きな励みになりました。
早速日本でも、昭和28年、交流電化調査委員会が設けられ、研究が開始されました。
当初は、実用実験に入るため、フランスから試作機を購入することを打診しますが、継続した車両の購入などを要求されるなど諸般の事情から、結局は輸入ではなく、国鉄を中心として車両メーカーが試作することとなりました。
当時、国鉄では経済復興に伴う輸送力の増強が求められており、さらなる輸送力の基盤整備を求められることとなり動力の近代化と幹線の電化は喫緊の課題となっていました。
 電化も推進されることとなりましたが、交流電化という新しい方式が注目されたことも事実で、その理由を列記してみたいと思います。

1. 交流電化方式は、直流電化と比較して地上設備が簡単安価。
2. 機関車の粘着性能が直流機関車と比して有利。
3. 列車本数の少ないローカル幹線などでは貨物輸送も、旅客輸送も行える機関車方式が有利
等の経済的メリットがあったと言われています。
 しかし、これは既設の直流電化と交流電化の接続を考慮しないことを前提としており、実際に、交直接続をどうするのかという点がその後大きな問題となってくるのでした。
 仙山線では当時、作並~山寺間が既に直流1500Vで昭和12年に電化されており、この区間を交流電化に変更することで試験が行われることになりました。
 変電所などの地上設備を少なくすることで、建設費用が安くなるとして、交流電化にはメリットがあると言われましたが、地上設備が安くなっても、機関車の価格が高くなってしまいました。
 さらに、旅客列車は動力分散化列車(電車)が主流となったため、結局車両設備が高くなってしまうという矛盾が顕著になってきました。
 最近では、それほど交流電化のメリットが考えられないことから、北陸線の米原~敦賀間のように、交流→直流に戻す例も出てきました。
 話を、交流電化に戻しましょう。
昭和28年7月に設立された交流電化調査委員会は、初代委員長に副総裁の天坊氏、副委員長に、技師長の藤井松太郎氏(昭和48年から第7代国鉄総裁)が就任しました。
実験線に仙山線 北仙台~作並間を選び、昭和29(1954)年9月から地上設備の試験が行われました。
翌昭和30(1955)年8月10日には、交流化試験線として、仙山線「陸前落合~熊ヶ根間」が交流20kV・50Hzで電化、さらに、9月5日には、仙台~陸前落合間、熊ヶ根~作並間が電化され。仙台~作並間交流電化で営業運転が開始されました。

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ローカル線問題と国鉄 第4話 進むローカル線の建設

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昭和27年交通年鑑昭和27年 昭和27年交通年鑑昭和27年
 ローカル線は、本来儲からない路線であり、積極的に国鉄は敷設したくないと言うのが本音でしたが、政府としては、国鉄を国の組織として置いておきたいと言う思惑も有りました。
 実際、当時の陸上輸送が実質国鉄しかなかったこともあり、全国から鉄道建設の要望があるのですが、連合軍(主にアメリカ軍)は、今後は自動車が中心であり高速道の建設を主体に粉うべきという方針からなかなか認められず、昭和26年に建設が認められたのは、津軽線 青森~蟹田間、赤穂線 相生~播州赤穂間、土讃線 土佐久礼~窪川間だけでした。
講和条約発効後を見越して昭和26年には、運輸省の下に、鉄道建設審議会が設置され本格的に建設が促進されることになりました。
鉄道省時代に設けられていた、鉄道会議が復活したようなもので、国鉄の鉄道建設は再び政府の意向に振り回される仕組みが出来上がってしまいました。
 政治の中に半強制的に組み込まれたと言っても良いのではないでしょうか。
この鉄道会議設置に基づき、昭和26年5月30日には、鉄道敷設法の一部が改正されています。
下記に、条文を一部抜粋します。

鉄道敷設法の一部を改正する法律

法律第百六十二号(昭二六・五・三〇)

 鉄道敷設法(大正十一年法律第三十七号)の一部を次のように改正する。
 第二条の次に次の九条を加える。
第三条 日本国有鉄道ノ鉄道新線ノ敷設(以下「新線建設」ト称ス)ニ関シ必要ナル事項ヲ調査審議スル為運輸省ニ鉄道建設審議会(以下「審議会」ト称ス)ヲ置ク
第四条 運輸大臣ハ新線建設ノ許可ニ関シ必要ナル措置ヲ為ス場合ニ於テハ予メ審議会ニ諮問スヘシ
 運輸大臣ハ公共ノ福祉ヲ増進スル為特ニ必要アリト認メテ日本国有鉄道ニ対シ新線建設ニ関シ必要ナル命令ヲ為ス場合ニ於テハ予メ審議会ニ諮問スヘシ
 審議会ハ内閣総理大臣及関係各大臣ニ対シ新線建設ニ関シ建議スルコトヲ得
第五条 審議会ハ本邦経済ノ発達及文化ノ向上ニ資スルコトヲ目標トシ公正且合理的ニ審議決定スヘシ
第六条 審議会ハ委員二十七人ヲ以テ之ヲ組織ス
 委員ハ左ニ掲クル者ニ付内閣之ヲ任命ス但シ第六号及第七号ニ掲クル者ニ付テハ両議院ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス

参考 国鉄があった時代
http://jnrera3.webcrow.jp/potal_shiryou/Law/Law_other/s26/s26_162.html

この法令改正では、各大臣が新線建設に対して意見を述べることができるとされており、時の大臣意向で鉄道建設が恣意的に出来ると言う内容となっていました。
 
 結果的に、国鉄は公共企業体として誕生してから僅か2年で鉄道省時代と同じ仕組みに先祖帰りしてしまうこととなりました。
 そんな中、公共企業体としての独立採算性も求められることから、国鉄としてもローカル線輸送のコスト削減と言う視点から昭和29年にはレールバスと呼ばれる車両(現在のレールバスの先祖)を誕生させています。
主にバス用部品を利用したことからレールバスと呼ばれ、エンジンも当時のバスエンジンを利用していました。
木原線を皮切りに北海道や九州の閑散線区を中心に昭和32年までに49両が投入されましたが、これらの車両は連結運転が出来ず、高学歴化とあいまった通学ラッシュの乗客増に対応できずに比較的早い時期に廃車されました。
現在も、小樽鉄道記念館ではキハ02が保存されており、当時のスタイルを偲ぶことが出来ます。

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ローカル線問題と国鉄 第3話 貨物輸送の改善

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昭和27年9月号、国鉄線の記事... 昭和27年9月号、国鉄線の記事から。
自動車による貨車代行輸送について語った記事
参照 http://library.transport.or.jp/
 ローカル線問題とは直接関係ありませんが、昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定されました。
 汐留~門司間が65時間から43時間に大幅に改善されたと言うお話を以前にさせていただきました。
 改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。
その後、朝鮮特需で需要は伸びたものの、ピークを過ぎると貨車の遊休が目立つようになったので国鉄では、サービスアップと貨車の有効活用を図るために、昭和27年9月から小口貨物の速達輸送を図るべく。「急行小口扱」を新設、貨車にも「急行便」の文字が書かれた専用貨車が使われました。これは、後にコンテナ輸送が本格化するまでは、花形列車として活躍することとなりました。
この一環輸送は翌28年には更に拡充され、自動車を活用して都市の小口扱い貨物の特定駅への集約や地方における自動車代行などが実施され、東京都内や名古屋地区、仙石線、八戸線などでは国鉄自動車局が貨車代行輸送を行ったという実績があります。
 記録によりますと、昭和27年から試行されていいたようで、昭和27年の国鉄線によりますと、筑豊線発着の小口扱貨物の自動車による貨車代行輸送が行われると言う記事を発見しました。
 すでに、昭和27年にはローカル輸送特に小口輸送はトラックにかなり喰われていることが当時の資料記事からでも見えてきます。
 都市部の集配はどちらかと言えば、貨物輸送を確保するためですが、仙石線、八戸線などの代行輸送も国鉄として拠点に集約輸送することでコストを抑えつつ貨物輸送を守ろうとする企業防衛と見ることもできます。

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ローカル線問題と国鉄 第2話 割増運賃制と国鉄運賃

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福知山線 旧武田尾駅 新線建設... 福知山線 旧武田尾駅
新線建設で、旧線は廃止されてしまいました。
 国鉄では、ローカル線の割増運賃を導入することを検討し、実施することとなりました。
昭和35年3月22日に開通した指宿枕崎線(山川~西頴娃間) には割増運賃として基本賃率の1.75倍を課した運賃となっていました。
 この方式は4線区に導入されましたが、翌年に新線建設補助特別措置法が成立するとこの制度は廃止されました。
 新線建設補助特別措置法に関しましては、下記に関連blogを、最下段に条文を載せましたので参照願います。
なお、割増運賃制度は、後年ローカル線問題が再燃する中で導入されますが、こういった事例がすでに、昭和35年頃にはあったことを理解しておいて頂きたいと思います。
なお、この制度を見ていると、国鉄としては独立採算制に則った方式で収支を相償うことを目指していたにもかかわらず、それを逆なでするような条文であったことは注目に値すると思います。

新線建設補助特別措置法の経緯は、下記国鉄があった時代blog版を参照していただければ幸いです。

国鉄があった時代blog版
日本国有鉄道新線建設補助特例措置法案について

昭和35年3月22日に開通した指宿枕崎線(山川~西頴娃間) については、基準運賃の1.75倍の運賃設定を図りました、その後この運賃制度は、日本国有鉄道新線建設補助特例措置法が制定されたことで、廃止となっているのですが。
概要的には、昭和36年から40年までの時限立法、建設費の補助ではなく建設に伴う利子相当分とされています。
すなわち、建設は引き続き自前なんですね。
そのうえ、営業開始語利益が出たら利益が出た分だけ補助金を減らすというかなり国鉄には不利な内容なんですけど、当時の国鉄は、国の経済発展を支えているという自負がありましたので、こうした条件を受け入れたのだと思います。
続きは、こちらをクリック

法律第百十七号(昭三六・六・七)

  ◎日本国有鉄道新線建設補助特別措置法

1 政府は、日本国有鉄道に対し、昭和三十六年度から昭和四十年度までにおいて、日本国有鉄道が昭和三十五年度以降当該年度の前年度までに鉄道敷設法(大正十一年法律第三十七号)別表に掲げる予定鉄道線路の建設に要した資金について、運輸省令で定めるところにより計算して得た当該年度の前年度分の利子の額に相当する額の範囲内において、予算で定めるところにより補助することができる。

2 前項の規定による補助(以下「新線建設補助」という。)に係る予定鉄道線路について、営業の開始後、運職省令で定めるところにより計算して得た利益を生じた場合は、その利益の額に相当する額を翌年度の新線建設補助に係る前項の利子の額から控除するものとする。

3 日本国有鉄道は、前項の場合において、その利益が当該線路につき最初に新線建設補助が行なわれた年度から起算して十五年度以内に生じたときは、その翌年度において、政府に対し、その利益の額の二分の一を下らない金額を、運輸省令で定めるところにより計算して得た当該線路に係る新線建設補助の額の合計額に相当すると認められる額に達するまで還付しなければならない。

4 運輸大臣は、前三項の運輸省令を定めようとするときは、大蔵大臣と協議するものとする。

   附 則

 この法律は、公布の日から施行する。

(大蔵・運輸・内閣総理大臣署名) 

******引用、ここまで********


簡単にいえば、利子だけは補助しましょう、但しその当該路線で利益が出て来たら、利益の一部から補填した利子分のおカネは返してねという、何とも国鉄には限りなく不利なというか理不尽な理屈なのです。

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ローカル線問題と国鉄 第1話 古くて新しい、ローカル線問題

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建設途上で廃止となった五新線鉄... 建設途上で廃止となった五新線鉄道橋、この高架線の上を鉄道が走ることはなかった。 仙石線の組織図 国鉄線昭和32... 仙石線の組織図 国鉄線昭和32年7月号から抜粋
この章では、国鉄解体問題の端緒となったとも言え、現在もその方策について広く論議されるべき対象であるローカル線問題についてお話ししたいと思います。
昨日投稿したのですが、誤って消してしまったので改めて投稿させていただきます。

古くて新しい、ローカル線問題。(特に昭和30年代を中心として)

国鉄の経営は、戦後の復興と進駐軍(連合軍)輸送に追われ、インフレの高騰の中で赤字経営を続けていました。
 昭和20年代の終わり頃もまだまだ、赤字体質からは抜けられず、運賃値上げなどを繰り返していました。
 そんな国鉄に対しては、赤字に対する批判が強くなっていき、当然ローカル線に対する批判も強くなっていきました。
独立採算制を建前とする国鉄でもこの問題について取組まざるを得なくなり、昭和29年、千葉県の木原線と久留里線にそれぞれ大原運輸区・木津運輸区を設置して線区別経営を試みました。
具体的には、駅長の廃止、無人駅化、貨物列車の隔日化、気動車による増発など、運輸部門を一括して合理化したもので、ある程度の成果を得ることが出来ました。
 入りを増やすのではなく出を減らすことで週h氏を改善しようとしたものであり、積極的に入りを増やすというものではありませんでした。
その後、運輸業務以外に保線・信号などの業務も線区別にまとめ、権限を大幅に委譲した管理所制度が発足させ、この テストケースとして仙石線が選ばれました。
最初のケースに選ばれた理由として、元々が私鉄であったたことなどと言われています。
管理所制度は一応の成果を納め、ローカル線経営のモデルケースと言われました。
 具体的には、所長に線区ごとに権限を委譲し、所長の判断で機動的に動けるようにしたもので、所長の判断で車両の改良や営業運動等も併せて行ったそうです。
 実際に、昭和33年からは全国に展開、運輸区は38線区、管理所は30線区まで広がりました。 この管理所制度は、現在の「地域鉄道部」の先駆けのようなものであったと考えていただければ理解しやすいのではないかと思われます。
ただし、仙石線では、増収活動まで取り組んだものの、他の運輸区や管理所では積極的に増収を図れる組織にまで行かなかったようで、ある一定の合理化を達成するとその存在価値自体が無くなってしまい、昭和45年頃までには全部姿を消してしまいました。
他に、戦時中に不要不急路線として線路が撤去された路線についても復活要望が起こり、路線として復活した所もありますが、「白棚線」の場合のように、復活に際して鉄道よりもバスの方が有利であるとして、旧線路敷きを専用自動車道として再整備して国鉄自動車白棚線とした例や、阪本線のように、当初は鉄道として建設されたが途中で採算性に疑問があるとして、路盤を自動車専用道に再整備のうえバス専用路線として(五条~城戸間)運用される例など、既にローカル線の建設に対しては批判が出始めていたのは注目していただきたいと思います。

余談ですが、坂本線も利用者の減少で現在は旧来の坂本線経由のバスは廃止されてしまいました。

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組織改変論議と国鉄 第8話 第三次長期計画と輸送力増強

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Econmy Coupon 略... Econmy Coupon 略称エック
旅館の手配と乗車券類が一体となったもので、いわゆるパック旅行のさきがけのようなものでした。
昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画は、輸送量の増加が当初予想を上回り、計画がこれをカバーしきれないことが確実となったほか、資材・用地・賃金等の高騰が当初予想の資金では不足をきたす結果となったうえ、三河島事故の発生で、安全面の投資不足が大きくクローズアップされるなど、昭和37年7月には第2次5ヵ年計画はまたまた修正を余儀なくされました。

 そこで、政府は総理府に「日本国有鉄道基本問題懇談会」を設置し、審議の上意見書として5ヵ年計画の見直しを提言しました。
 この提言に基づき、国鉄は第2次5ヵ年計画を39年度までで打ち切り、新たに昭和40年度から第2次計画の2.2倍に当たる、総額2兆9,720億円を投入する第三次長期計画が昭和46年までの7年間の計画でスタートしました。
 おりしも、昭和39年には、国鉄は赤字を計上したにもかかわらず、その無謀とも言える計画はスタートしたのです。
 この計画では、通勤通学輸送の改善に関する投資額が大幅に増えたことで、第2次5ヵ年計画では5.8%、777億円だったものが、17.5%、5,190億円と大幅に増えました。
この背景には、線路増強を行なわなかったために過密なダイヤとなり結果的に三河島事故や鶴見事故と言った重大事故を起こしたという事実がありました。
 この通勤路線増強計画の主体は、東京に放射状に集中する5路線、すなわち東海道・中央・総武・常磐・東北の各線を指し、一般的には「東京(通勤)5方面作戦」などと呼ばれました、なおこの詳細は別に機会に譲りたいと思います。
 ただ、これらの資金は、独立採算制を建前とする国鉄ですので基本的には運賃収入及び借入金で賄う必要が生じたのです。
 やがて、国鉄の第三次長期計画も、収入に対して過大な投資を強いられていたので、黒地経営に転換することもなく、昭和43年には積立金も食い潰してしまう、破産状態となってしまいます。
 この頃を境として、国鉄は政府からの出資を受け入れることになるのですが、既に高速道路などは、道路公団時代は、自動車重量税などに代表される特定財源で補てんされていたのに対し、国鉄の場合はその額は、他の港湾整備や空港整備と比べても少なく、かつ、運賃は引続き法令改正によることとされていたため、時には意図的に値上げ率を引き下げられたリ、場合によっては改定時期をずらすと言ったことも行われ、結果的に建設費用の不足をきたすこととなり、臨時で国鉄に貸し付けると言った法案を別途審議するといった無駄なこともありました。
 その反面、石田総裁時代には営業面で積極的な増収策もい打ち出されたことは注目に値すると思います。
 例えば、エック(旅行会社に委託したエコノミークーポンの愛称)の販売がありました。また、「Discover Japan 美しい日本と私」は、国鉄時代の最大のヒット企画だったと言えますが、こうしたキャンペーンの導入などを含めて国鉄は輸送力の増強とともに、積極的に旅客を誘致する方向に変わっていきました。
 しかし、第3次長期計画も国鉄に対して政府が積極的に補助を行うことはなく、もっぱら郵便貯金を中心とする大蔵省資金運用部資金を借り入れた他、鉄道債券(政府保証付)等で調達されました。
その後、鉄道債券の償還期間が10年程度と短く、かつ金利も7%近くあったため、建設が終わるころには最初の償還期限を迎えることとなり、財政的には償還金を返すために更に鉄道債券を発行すると言った悪循環となり、例えは悪いが高利の金融機関で借りた元金を返すために更に別の金融機関で借りる状況になっていました。
事実、国鉄の負債は昭和50年頃から急激に増大していくのでした。
 その結果、国鉄に対して政府からの補助金、利子の棚上げなど、つじつま合わせのような施策が行われますが、事態は改善せず。
 公共企業体国鉄は、運輸省、国会議員や政府の顔色を伺う状態となっていくことになっていきました。
 歴史にIFはないのですが、昭和40年代の第三次長期計画が、政府主導で資金助成などが行われていたならば財政悪化も抑えられたのではないでしょうか。
 ただ、国鉄の問題は、単純にここに原因があった・・・と言えるほど単純ではなく、複数の要素が絡み合っているだけに。建設補助を出したら国鉄は赤字にならなかったとか、労使関係が良好であれば赤字にならなかったとか。分割民営化は無かったとは言い切れないと言えます。
 
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組織改変論議と国鉄 第7話 昭和32年監査報告書

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昭和32年 国鉄監査報告書序文... 昭和32年 国鉄監査報告書序文
引用 公益財団法人 交通協力会 から引用
http://transport.or.jp/
<昭和32年の監査報告書には>

  国鉄監査委員会<委員長は後の国鉄総裁に石田礼介氏長)が発表した、昭和32年度監査報告書の序章で、「国鉄経営理念の確立」を唱え、公共企業体審議会の答申と、産業計画会議の勧告を正面から取り上げていました。
以下引用すると
 「監査委員会は、これらの意見に対して、必ずしも全面的に賛意を表するものではないが、国鉄は、このような批判の、よって生じる所以を深く顧みる必要がある。そもそも国鉄は公共企業体であるが、一つの企業体である以上、それが自主性をもち、企業性の発揮によって企業としての確固たる基盤を持たなければならないことは当然である。・・・・ 今や国鉄の経営刷新が強く要望されているこの時において、国鉄が公共企業体としての、その使命を果たすための”新しい経営理念”は、外に対しては自主性を確立することであり、内に対しては企業性を強化するとともに、業績に対する全責任を明らかにすることがあると考えられるものである」
 以上のように、国鉄が新しい「経営理念」を作るべきあることを強調していました。
 国鉄の監査報告書は、ややもすると政府の意向を反映する傾向にありましたが、この報告書は国鉄に対してはきわめて厳しい批判と取れる反面、力強いバックアップとも言えました。ただし、大国鉄を大きく動かす原動力とはなりえなかったのは残念でなりません。
 むしろ、国鉄ではそういった意見を耳にしながらも、戦中戦後に酷使した老朽資産の置換えもさることながら、戦後増大した輸送需要に対して、国民の付託に応えるために、大々的な輸送力増強を含めた、大幅な改善計画を発表するのです。
これが後の第一次5ヵ年計画と呼ばれたものでした。
概要を以下に簡単に書かせていただきます。
 第一次5ヵ年計画の背景には戦後の国鉄輸送量の増大がありました、具体的には戦前の昭和11年と比較して旅客で3.74倍、貨物のトン数では1.65倍の増加となっていました。
 ところがこれに対し、国鉄では、戦時中の酷使で老朽化した施設や車両で対応せざるをえず、輸送力不足は否めませんでした。
 しかし、戦後のインフレーションの中では、収入で経費を賄うことも難しく、桜木町事故のように戦時中の粗悪品を使っていたことに対する国鉄の批判も大きくなっていたことから、計画されたものでした。
5ヵ年計画の基本は、
1. 資産の健全化、老朽施設の更新、信号保安度の向上
2. 輸送力増強
3. 動力・設備の近代化
以上の3点を重点事項とし、総投資額は5000億円にも達しましたが、昭和32年のなべ底不況で資金事情が悪化。資金不足で設備投資が十分に出来ず、老朽資産の取替えに追われ、輸送力増強が出来ませんでした、景気が回復すると今度は輸送需要が逼迫という状態となり、計画自体が過少であったとして、第一次5ヵ年計画は35年度でひとまず打ち切り新たに第2次5ヵ年計画を策定することとなりました。
 なお、第一次5ヵ年計画では、電化・気動車化を中心とした動力近代化の端緒を開いたことは大きな功績でしたが全体としては、計画に対する達成率は68%でした。
さて、国鉄の第一次5ヵ年計画は、電化の推進(東海道線全線電化)など一定の成果は得られましたが、計画が過少であったとして、輸送力の増強。動力と輸送の近代化を盛り込み、経営の長期安定を目指し、昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画がスタートしました。
これは、投資総額が9,750億円(当時)という巨大なものでした。
具体的な内容は、昭和39年版運輸白書で参照すると、以下のようになっています。
1. 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
2. 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
3. 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行ない,これを電車化すること。
4. 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
5. 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。
 ただし、昭和38年度までの進捗状況は概ね60%以下で推移しており決して充分な進捗状況であると言えるものではありませんでした。
 しかし、ここで注目いただきたいのは、国鉄諮問委員会(原安三郎委員長)が、昭和35年9月に、第2次5ヵ年計画への切替えを勧告した意見書で、過度の公共負担や、不採算路線の建設、運賃制度の不合理、中ぶくれの人員構成の、「4つの根本的な病根」と呼び、政府に抜本的な対策を政府に望んでいました。
第2次5ヵ年計画も、東海道新幹線は完成にこぎつけたものの、急激な高度経済成長に追いつけず39年度で再び見直しを迫られることとなりました。
特にこういった一連の輸送力増強計画に際して、自己資金以外は、国鉄自身の借入金で賄わせたことに大きな問題がありました。
昭和38年5月に提出された監査委員会の答申書「国鉄経営の在り方についての答申書」によると、国鉄が名ばかりの公共企業体となった原因を政府にあると、その責任を追及しています。
ここでその内容を引用させていただきますと、

  「国鉄に果たして”企業性”が与えられてきたか、ほとんど完全に否である。・・・、国鉄の理事者は、その判断の自由と行動の自由とを、運輸省の一般監督、大蔵省の予算制度上の監督、国会が運賃決定権を握り、国鉄総裁は、その万般にわたる質問に対して自ら答弁に当たらなければならないことなどによって、まさにガンジガラメに縛られていたのである。・・・国鉄は、”企業性”を阻まれてきたが故に、そのうべかりし”収益力”を発揮しないできた、と同時に国鉄は”公共性”の名によって過大なる公共負担を負わされてきた。それが国鉄の今日ある所以である。別のいい方をすれば”独立採算制の公共企業体”たるべき国鉄に、その実が与えられていないこと、そこに全ての原因があるのである」
とはっきり指摘していました。
また、民営化論議に対しても、国鉄に対してもっと公共企業体としての実を与えることができるように配慮すべきであると指摘していました。
「国鉄を一会社の運営にまかせるのはムリだが、分割の方法が立ちにくい、資産の評価もむずかしく、今の国鉄には買い手がつかないだろう。民営にしたらうまくゆくという保証もえられない」として退けています。また、官営に戻す案に対しても、「国鉄が企業体であることによる利益を放棄してしまうことになるとし、政府に対し、国鉄に公共企業体としての実を与えることを求めていました。

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組織改変論議と国鉄 第6話 産業計画会議の勧告

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新幹線産みの親、十河信二氏 画... 新幹線産みの親、十河信二氏
画像 wikipediaから引用
〈産業計画会議の勧告〉

公共企業体審議会答申からしばらく経った、昭和32年7月には、民間組織の産業計画会議が「国鉄民営化論」を発表、新聞社・評論家をあげて賛否両論が繰り広げられました。.

その際の勧告の要旨は以下のとおりです。

「Ⅰ 国鉄を特殊会社とし、その経営に完全な自主性を与えよ」
1.  現在の公社による国鉄経営には、運輸省、大蔵省、国会などからあまりにも制縛が多い。私鉄と体等の自主性を与え、経営者の経営責任を確立せよ。自主なきところに責任は存せず、責任なくしてはサービスの改善も能率の向上も行なわれえない。
2. お役所仕事の弊をなくすため、特殊会社制度とする。政府出資に若干の民間出資を加えて数個に分割し、政府(運輸大臣)監督は長期事業計画・運賃決定など重要事項と財務の審査にとどめる。私鉄に許されている程度の兼業も認める。
3. スト権を認め、労働関係を正常化する。

「Ⅱ 国鉄を分割経営せよ」
1. 経営単位が大きすぎて、中央の意思が末端までゆき届かない。日々、計数的に経営の実態を明らかに出来ない。
2. 事業経営の能率をあげ、サービスを改善するには、競争が必要だが、全国一本の国営的独占事業では、たと経営上の比較が出来ない。
3. 全国的なプール計算では、経営努力によって黒地となりうる路線の赤字に対しても、経営者は不感症となり、赤字路線の原因も責任も不明確となる。

 さらに産業計画会議は、ローカル線建設の廃止や、不採算路線の撤去、小駅の廃止、荷役機械化の促進、自動車業の兼営、動力近代化、全線複線化、原価主義の原則にたった合理的な新運賃体系の改革案など、具体的な資料をもとに提言されており、少なくとも昭和30年代には地方ローカル線の多くは、大きな荷物になるであろうことが予想されていたといえます。

全体の流れとしては、国鉄の分割民営も視野に入れて検討すべきではないかともとれる内容であったようです。
産業計画会議は、民営分割を一つの方向として示していましたが、これに対して国鉄あるいは批判的な評論家は以下のような理由で民営化を牽制しました。

1. 世界の鉄道は公共企業体奉仕への統合が進んでおり、民営化は時代に逆行していること。
2. 組織を分割すると、ラッシュ時などを中心として、能率的なダイヤ編成が出来ない。
3. 分割論の利点は支社制度の強化で実現できる。
4. いわゆる民営にしても、資本は国がみなければならず、形式的なものになる。

など、批判的な意見がありました、ただ、分割民営化に反対だが、政府の干渉をなくして、経営の自主性を持たせる点などは、概ね賛成の意向を示す人が多数いました。
 当時の産業計画会議には、十河国鉄総裁や、島技師長ら国鉄幹部もそのメンバーとして名を連ねており、民営分割という、当時としては刺激的な形を通じて、国鉄部内における問題点を露呈したのかもしれないという見方もあります。
 実際に、当時の国鉄では運賃の改定一つにしても国会の審議を経なくてはならず、国鉄労働者への賃金引上げも基本的には経営者側で決定できない状態に有ったのですから、会社を経営しているとはとてもいえない状態といえました。

下記に参考になる、産業計画会議の提言がありましたのでリンクを貼らせていただきます。

参考 http://criepi.denken.or.jp/ 電力中央研究所
http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_04.pdf
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組織改変論議と国鉄 第5話 日本国有鉄道経営調査会の発足

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東急の実質的創業者 五島慶太氏... 東急の実質的創業者 五島慶太氏、小林一三氏とは同郷であった
昭和30年、政府は臨時公共企業体合理化審議会の答申を受けて、運輸大臣の諮問機関として『日本国有鉄道経営調査会』を設け、経営形態と財政再建の方法を諮問したのです。
その背景には、戦時中から戦後にかけての酷使で輸送施設は全体に老朽化し、慢性的な輸送力不足と労使関係の悪化に伴う職場の荒廃などが取り沙汰されていたからです。
この委員会には、民間からも阪急グループ総帥、小林一三氏や、東急グループ総帥、五島慶太氏も指名され、各氏は以下のような意見を述べています。

小林一三氏
 「民営なら開発事業ができるし、資金調達も自由に行なえ、創意と責任を持って積極的な経営ができる。」

五島慶太氏
 「国鉄を北海道・東京・東海道・北陸・大阪・四国・九州の7経営体に分割し、独立採算制を採用、その上に監督権管理機関を置いて経営すべき」という提案をされています。
現在のJRを予見するかのような民営化論が既に今から50年以上前にあったことは注目に値すると思います。
特に、東の雄、東急グループ総帥の五島慶太氏は、現在のJRの姿を予想?していたかのような内容です。
 「国鉄を北海道・東京・東海道・北陸・大阪・四国・九州の7経営体に分離し、独立採算制を採用、その上に監督兼管理機関をおいて経営すべきだ」との考え方は、当時としては非常識と映ったかもしれません。
  昭和31年2月に調査会は、経営形態について「現在国民の一部には、”国鉄を国営にかえすべし”また、”純然たる民営に移行せしむべし”との主張があり、さらに各段階での分割論なども議論されているが種々のの観点から考慮を加えた結果、我々は現在の公共企業体の形態は、これを存続させ、高度の公共性を確保しつつ、能率的な運営を図って、国民の鉄道としての任務を充分に発揮できるよう要望したい。国鉄は公共企業体であることをより明確にする意味で、現在の” 日本国有鉄道”という名称を”日本国有鉄道公社”と改めることが適当であろうと考える」と答申がありました。
  答申は、基本的には国営に戻すべきではないかという意見に対して、以下のような否定的な見解を示し、現在の公社としての形態を維持すべきではないかという意見でした。

以下全文を引用させていただきます。

  「民営論は内容的に不明確だ、能率化のため、膨大な組織を分割して競争させるところのあるようだが、分割論に対する考え方で対処できる。分割論は経営の画一性を打破し、能率的な運営を行うことを目的として主張されており、うなずける点も多いが、企業の完全な分割は輸送を不円滑にするおそれがあり、運賃の不均衡も予想されるので、直ちに採用するのは困難。内部的に地域ブロックの経営単位を設け、強い権限を与えるとともに、経営への目標定めて、競争による能率発揮の実をあげることが可能と思われる。」
となっています。
 このように、当時すでに現在のJRで見られる問題点が指摘されていたことは注目すべきことですが、結局この時期にもっときちんとした議論が出来ていれば良かったのですが。当時はこれが出来ない事情もあったのですが、この辺は別の機会に譲りたいと思います。

また、答申では。基本的態度の項で以下のような点を指摘しています。
こちらも全文引用させていただきます。

「特別に注意を喚起したい点」
「第一は、一般交通政策の確立と、その面における国鉄の受け持つべき役割を、より明確にすることである。国内交通は、鉄道・自動車・航空機・内航船等によって受け持たれているが、これらの各交通機関相互間の関係を調整し統一のある総合的な交通政策を樹立することは、きわめて喫緊の課題となっている。にもかかわらず、政府のこの面に対する方策には、見るべきものが少ない。一般交通政策を確立して、そのうちにおける国鉄の使命を明確化し、その果たすべき役割を定め、これをいかにして達成してゆくかを明らかにすることが絶対に必要である」と強調しています。
当時の国鉄が抱える問題点として、二つありました。
一つが労使関係、もう一つが財政再建問題でした。
 国鉄は、赤字が累積して解体されたと一般的に言われていますが、昭和30年代は概ね黒字決算で推移、昭和29年~31年は赤字決算でしたが、戦前の輸送力水準にほぼ戻った昭和32年度からは、着実に黒字を積み上げていましたが、その反面設備投資については、全て国鉄自身で行うこととされていました、実は黒字を累積していた時期にも見えない赤字への時限爆弾はスイッチが入っていたのですが、そのときは誰も気づかないまま、第1次5ヵ年計画がスタートしました。
 第一次5ヵ年計画を前に、運賃値上げか、国の補助を入れるかの点が審議されました。
 結局、国鉄としても企業体としての独立採算を堅持することを選択しました。これにより、国家財政の負担を軽減し、直接国民に税負担を加重しなくてすむという考え方に基づくものであり、多少の合理化は止むを得ないと考えたようです。
 当時の国鉄は、元々運輸省の現業部門が独立した形となっているため、運輸省以上に、官僚意識が強く、国家のためにといった職員が多かったと聞いています。
 話は、少し脱線しましたが、これにより国鉄の財政は好転し、昭和39年の新幹線【当時は東海道新幹線とは呼ばず単に、新幹線と呼んでいた。】開業年までは黒字を計上したのです。
ただ、労使関係の軋轢は避けることはできなかったようです。

 さて、国鉄では、日本国有鉄道経営調査会の答申により、経営委員会を廃止して経営権限を強化した理事会の他、監査委員会・諮問委員会を設けました。
 また、総支配人制を昭和31年1月に廃止して、全国に6支社を設置、その下に管理局を置く体制が出来上がりました。
 参考「総支配人制度(wikipedia参照)」
  国鉄発足当初、省時代の鉄道局の業務を継承して地方単位で地方機関を統括する責任者として、業務別に輸送支配人(鉄道管理局担当)、営業支配人(営業事務所担当)などを設置した。その後、1952年8月5日の組織改正で地方駐在各支配人を統合し、鉄道管理局を管轄する本社直属の管理者として地方総支配人を設置した。北海道・東北・関東・中部・関西・西部の6総支配人を置いた。

以上wikipediaから引用

 支社制度とは、新幹線生みの親でもある、十河信二氏が、本社から地方への大幅な権限委譲を行なうために設けられた制度で、昭和32年1月16日に以下の6支社が設置されました。
北海道支社
東北支社【仙台以北】
関東支社【関東、新潟地域】
中部支社【静岡以西福井県含む】
関西支社【大阪以西】
西部支社【九州全域】

 昭和34年4月8日には。関東支社から分離する形で、新潟支社、西部支社から中国支社、四国支社が分離、9支社体制となりました。同時に管理局は支社に統合されました。
 これにより、本社→支社→管理局→現場のラインとなりました。
 国鉄を民営化するのか否か野議論のなか、国鉄に関しては公共企業体というかたちを堅持することが確認され、政府は以下のような答申を受けれいれました。
政府は、昭和32年に、公共企業体審議会に3公社の改善要綱を諮問
「公共企業体の制度を維持することは認めるが、組織と運営については、抜本的に民間的センスに切替え、その企業性と自主性を強化し、もっぱら能率的・進歩的運営を図るとともに、企業経営の責任を確立すべきだ」
との答申を得ました。 国鉄に対しては、
1. 運輸大臣の専管事項とする。
2. 新線の建設は鉄道経営に見識を持つ学識経験者で構成する審議会の義を経て、運輸大臣の認可を必要とする。
3. 若干の地域別の経営単位の分ち、各単位に自主的運営を行わせることが望ましいから、さしあたり支社制度を一層強化徹底して、独立採算制に近づける方式を採用する必要がある。なお、国鉄を数個の公社に分割すること、または、さらに進んでこれを民営化することは、将来の研究にまつ。
4. 国鉄幹線と関係の浅い地方線については、民営に移すことを別途検討されたい。
という答申をまとめました。
これを見ていきますと、当初は民営化に消極的であった審議会が、やがて国鉄の経営形態について公社が適当としながらも次第に、民営論にも関心を示し、特にローカル線については、民間への移行など、公社の限界を感じ始めているようにも受取ることが出来ます。
 しかし、この問題がやがて25年後に現実の問題として浮かび上がってくるとは当時は予想し得なかったことと思われます。
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組織改変論議と国鉄 第4話 風向きが変わってきた民営化

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昭和29年国鉄線からの引用記事 昭和29年国鉄線からの引用記事
 民営化はせずに、公社としての自主性を認めようという意見がありましたが、やがて世間の風は民営化もよいのではないかという流れに変わりつつありました。
 政府は、昭和29年に臨時公共企業体合理化審議会という組織を設け、公共企業体(公社)の有り方について以下の趣旨で検討する旨指示を出しました。
 「公共企業体は、公企業の合理化と民主化のための新しい企業体であるが、その公共的かつ能率的経営を確保するため、なお改善を加える必要があると認められる。
 これに対する改革要綱を示されたい」と諮問しました。
 要は、戦後GHQ主導で作られた公共企業体という組織を、国営に戻すべきなのかそのまま現在の形態でよいのかを日本人の目で見直してみようというわけです。

 この答申は、昭和29年11月に行われ、公共企業体としての形はその後も継続することが確認されましたが、これが後に国鉄の赤字体質を産むことになるのは当時既に予見できたにもかかわらず放置されてしまいました。

その点は、後ほど述べたいと思います。
 この答申では、「本来の企業性を十二分に発揮するため、また同時に公共事業の本質も顧みて、改善すべきものは改善したうえ、公共企業体としての形態を存続すること」とされました。
具体的には、経営委員会の強化、合理化への取組、政府資金の手当て等がおもな要望事項とされました。
 なお、鉄道部会の報告書では特に、「私企業とちがって、株主に対する利益の配分がないし、経営者に収支の決算の結果が痛切に感ぜられないと思われるので、運営当局としては常に留意すること必要」との指摘もあったのですが、この問題が国鉄問題の根本的要因として既に指摘されていたにも関わらず、ローカル新線建設の是非などは議論されたとしても鉄道敷設法そのものには言及されないなど、答申自体が中途半端なイメージを受ける結果となりました。

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組織改変論議と国鉄 第3話 国鉄公社と民営化

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直接関係ありませんが、入換用機... 直接関係ありませんが、入換用機関車として昭和33年から製造が開始されたものです。
 この議論では、戦前のような国営に戻すのではなく、施行しか6年しか経ていない公社の形態をそのまま踏襲すべきであり、国有鉄道からより公社の意味合いを強く出せる、「日本国有鉄道公社」に改めるべきであるとされました。
答申には、当時の経過を中心とした説明がついているのでこれを引用すると以下のようになります。

国営論反対派の意見として
 「国営論は政府の監督強化をつきつめた公共企業体以前への復元論だが、再び国営にするとしても、財務・人事などの制度は今日とあまり変わらないだろう。
発足6年では、真に公共企業体設立の趣旨が発揮されたかどうかも大きな疑問だし、経営形態の改変そのもに伴う混乱も予想されるので、とらない」
 公社にしたばかりなのだから公社の制度をもう少し見極めたいといったところではないかという意見が強かったようです。
 また、民営化論についても慎重な意見が出ていました。
 「民営論は内容的に不明確だ、能率化のため、膨大な組織を分割して競争させるところにあるようだが、分割論に対する考え方で対処できる。分割論は経営の画一性を打破し、能率的な運営を行うことを目的として主張されており、うなずける点も多いが、企業の完全な分割は輸送を不円滑にするおそれがあり、運賃の不均衡も予想されるので、直ちに採用するのは困難。内部的に地域ブロックの経営単位を設け、強い権限を与えると供に、経営への目標を定めて、競争による能率発揮の実をあげることが可能と思われる」として、民営化論は早急と言う意見を展開していました。
また、答申では財政再建についても詳しく述べられていたが、問題点ははっきりしていても、それが改善できない国鉄の姿が示されていました。

なお、民営化推進論者は、小林一三(阪急電鉄創業者)氏等が中心であり、当時に民営化を採用していた場合、新幹線は誕生していたのか?ローカル線の経営はどこまで維持できたのか・・・また、高速道路の発展はどこまで進んだのか。
あらゆる歴史のIFが考えられますが、実際には民営化案や、更に政府の関与を外す、公社化案もいつの間にか有耶無耶になってしまったようです。
その辺は、今後もう少し研究してから発表させていただくこととします。

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組織改変論議と国鉄 第2話 臨時公共企業体合理化審議会の発足

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昭和29年から32年にかけて増... 昭和29年から32年にかけて増備された最後の旧性能機関車EH10
  公共企業体発足から5年後の昭和29年、政府は「臨時公共企業体合理化審議会」を発足させました。
 「公共企業体は、公企業の合理化と民主化のための新しい企業形態であるが、その公共的かつ能率的経営を確保するため、なお改善を加える必要があると認められる、これに対する改革要綱を示されたい」と諮問しました。
 これは、占領に伴いスタートした公共企業体を、日本人の目で見直そうということが目的でした。(この内容等につきましては、改めて別の機会にbloigで書かせていただきます。)
 この答申は、昭和29年11月に行われ、「本来の企業性を十二分に発揮するため、また同時に公益事業の本質も顧みて、改善すべきものは改善した上公共企業体としての形態を存続すること」に決定しました。
 具体的には、合理化をすすめなさい、経営委員会がもっとしっかりしなさい、政府が資金の手当てをしてあげなさい。ということで、どちらかといえば、国営に戻すべきか公共企業体のままが良いのかということがおもな争点となっていました。
 この時点では、民営化ということは全く考えられなかったというか、むしろ国営に戻したいというのが本音ではなかったのかと思います。
その背景には、GHQ=アメリカに押し付けられたものと言う思想があったのではないかと思います。
しかし、戦後の国鉄は、GHQ(実際にはCTS)による占領軍の軍事輸送を行いながら、戦時中の酷使による老朽施設の更改を強いられていた他、日々増大する輸送量に対しての改善は限られた予算の中で行っていまたわけであり、改善計画が充分に行かなかったわけですから、きちんと政府で対応することも可能ではなかったかと思いますが、逆にこういった問題も大きくクローズアップされていたかもしれません。それは、不採算路線の敷設についてでした。
 鉄道路線は、明治時代の法律(鉄道敷設法に基づき敷設が行なわれることとされており、日本国が独立を取り誰もいませんでした。
  そんななか、政府は「臨時公共企業体合理化審議会」の答申を受けて昭和30年、運輸大臣(現在の国土交通省)の諮問機関として、『日本国有鉄道経営調査会』を設け、経営形態と財政再建について改めて諮問したのです。
  委員としては、阪急グループ総帥 小林一三氏や同じく東急グループ総帥 五島慶太氏の名前も上がっており、小林氏は「民営なら開発事業が出来るし、資金調達も自由に行え、創意と責任を持って積極的な経営が出来る。」と発言、五島氏も「国鉄を北海道・東京・東海道・北陸・大阪・四国・九州の7経営体に分割し、独立採算制を採用、その上に監督権管理機関を置いて経営すべきだ」との今のJRに通じるような案を今から50年以上前に提言していました。
  昭和31年2月、調査会は、経営形態について答申を行いましたが、その内容としては、国鉄は引続き公共企業体で行くとのことでした。
そこには、公社として発足したばかりであり、その評価は未知数であることが決め手となりました。
さらに、国鉄の名称を「日本国有鉄道」→「日本国有鉄道公社」とすべき案も出されたそうです。
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組織改変論議と国鉄 第1話 公社化以前に話題となった民営化

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組織改変論議と国鉄 第1話 公...
  国鉄の誕生というと、皆さんよくご存知とおもいますが、昭和23年7月22日に発表された、マッカーサー書簡が、その発端であるということを理解しておられると思います。
 この書簡によると、鉄道・塩・アルコール・たばこ等の専売業務は政府事業から公共企業体に組織変更すべしと明記されていました。
 当時は、GHQの命令は絶対であり、それにより当時運輸省の現業機関であった国鉄は、昭和24年6月1日、たばこ・塩・アルコール専売と供に公社化されました。
 ただ、当時日本には、公社という概念(public corporation)が理解されず、国鉄を昔ながらの鉄道省のような組織として残したい政府との間で綱引きが行われたようです。
 政府は鉄道省の改組という意識ですし、GHQ側は完全な権力からの分離を狙ったのですが、結果的に大幅に政府が関与する形の組織となってしまい、当時の運輸省のエース級も殆どが国鉄に移籍してしまったため、長らく国鉄>運輸省の構図がありました。
なお、戦後合併していた運輸省と逓信省は、郵政省・電気通信省に再分離しています。電気通信省は後の電電公社(現在のNTT)であり、余談ですがKDDIも元は電電公社から分離したKDDと京セラ系のDDIが合併したものであることは皆様ご存じの方も多いかと思います。
なお、電電公社誕生は、電気通信省では増加する固定電話網の整備に追いつけないとして、昭和27年に電電公社に組織換えされていますがこれは、国鉄問題とは異なる話ですので割愛させていただきます。

公社化以前に話題となった民営化
 公共企業体として再出発をした国鉄ですが、実は第2次世界大戦終戦直後の昭和20年9月頃から、三菱経済研究所など民間の研究機関から民営論が叫ばれ、また財界からも戦後の公債を処理するために鉄道などの政府事業を払い下げる声があったようですが、経済界への影響の大きさを考慮しその話はいつかうやむやとなりました。
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復旧から発展 第3話 第2次5ヶ年計画

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池田勇人 画像 wikiped... 池田勇人 画像 wikipedia
昭和32年度を初年度とした第1次5ヶ年計画は、資金不足により頓挫したことから、新たに昭和36年度を初年度とする第2次5ヶ年計画が策定されました、これは、第1次5ヶ年計画が政府策定の経済自立政策に則ったものであったのに対し、今回は池田政権の所得倍増計画に対応したものでした。
計画の骨子としては、主要幹線の線路増設と輸送方式の近代化、経営の合理化です。
計画の目玉は、当時、世界の三大馬鹿と言われた新幹線でした。(ちなみに、当時の世相では、万里の長城、戦艦大和、新幹線を世界の三大馬鹿と揶揄されていました。)
このときの総投資額は、9,750億円(うち東海道新幹線は1,735億円)でした、さらに、昭和37年5月の三河島事故(信号無視で安全側線に突っ込んで脱線した機関車に対向の電車が接触し160人が死亡した事故)や、昭和38年11月の鶴見事故により、輸送力の増強がより強く求められました。
新幹線の建設に際しても、当初は予算を通すために過少な額を提示していたため、当然資金不足に陥ることとなり、世界銀行から8,000万ドル=288億円(年利5.75%)による借款を行ないました。
 この実現には、当時鉄道局長であった佐藤栄作(後の首相で、岸伸介首相とは兄弟)氏の尽力がありました。
この計画は、ほぼ予定通り進行し、東海道新幹線の開業をもって一つの区切りとなったのですが、皮肉なことに昭和39年、この年以降は毎年赤字を計上することとなり、昭和62年にJRに改組されるまで黒字に転換することはありませんでした。
客観的な目で見れば、新幹線を含め国家的事業であるにもかかわらず、国の政策に則って動く若しくは動かざるを得ない国鉄の事情が見えてきます。
さらに、それを独立採算制の建前から、自前で調達しなくてはならない、さらには地方の発展のためという名目で、収益性の認められないローカル線建設、学生の教育機会均等のために、格安な定期券の発売など、本来であれば運輸省なり建設省、文部省(省名は全て当時)が負担すべき分野まで国鉄が負担を負っていたことは問題だったと言うことを認識していただきたいと思います。(この辺は、磯崎総裁も国会答弁などでその旨を答弁しています。)
他に、国鉄では昭和30年代に、地方の財政不足を補う目的で、線路の延長ごとに率を決めて地方交付金なるものを支払っていました。この点は、別の機会に譲りたいと思います。
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復旧から発展 第2話 輸送力増強と頓挫

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画像は直接関係ありませんが、動... 画像は直接関係ありませんが、動力近代化もこの時期から始まりました。
 国鉄では、昭和30年代が最も輝いていた黄金時代と言われており、昭和30年度の輸送量は戦前昭和11年と比較してみると、旅客で3.74倍、貨物はトン数で1.65倍へと著しい増加を示していたが、戦時中に酷使した設備の復興は、戦後のハイパーインフレで、収入から経費を賄うことは難しく、かつ、その後の朝鮮戦争後の物価及び賃金上昇はそれに追い討ちをかけることとなりました。
更に、追い討ちをかけるように桜木町事故などの大事故で、世論は国鉄の老朽施設や改善不十分な車両などに対して厳しい目を向けるようになりましたた。このため国鉄としても抜本的に改善を図るため第1次5ヶ年計画を策定し、運輸省に提出しました。
昭和31年8月政府が策定した経済自立5ヶ年計画に呼応して作成されたもので「第1次5ヶ年計画と呼ばれました。同計画は昭和32年度を初年度として
1. 老朽施設・車両を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
2. 現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を図り増大する輸送需要に応じるよう輸送力を強化する。
3. サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進
を重点事項として、総投資額は当初5,020億円とされたが、好況化でさらなる輸送力のさらなる増強が期待されたことから昭和32年には約6,000億円に増強されました。
しかし、この計画も、独立採算制の建前から、資金を自前で調達しなくてはならず、3年後には資金不足に陥り再検討を余儀なくされることとなり、進捗率は50%に留まりました。
また、内容的には老朽施設の更新に追われたので新たな設備投資は大幅に遅延、北陸本線を筆頭に増大する荷物を捌ききれず、滞貨の山となっていき、貨車不足は深刻な問題となっていきました。
  この第1次5ヶ年計画は概ね老朽化施設の更改が終わったことから、推進率68%の低率ではありましたが、昭和35年度を持って打ち切られ、新たに第2次5ヶ年計画を策定することとなりました。
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復旧から発展 第1話 当時の世相概略

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トリスでハワイ 当時のテレビコ... トリスでハワイ 当時のテレビコマーシャル youtubeからキャプチャ
この章では、戦後は終わったと言われる昭和30年代を中心に、国鉄最後の黄金期と言われた時代を描いていきたいと思います。
少し長くなりますが適当に短い章立てをして、読みやすくしたいと思います。 なお、労働問題については、別章で詳しく述べる予定ですので本編では概略を述べるに留めたいと思います。

当時の世相概略
単独講和か全面講和かでもめた講和条約は、アメリカと日本の利害と思惑が一致し、中国(中華人民共和国)及び旧ソ連(現・ロシア)とは講和条約を結ばないまま、昭和27年に講和条約は発効、日本は一応独立国としての体裁を保つこととなりました。
(アメリカとしては、早々と昭和24年頃には撤収したかったのが、朝鮮戦争の勃発で抜けられなくなったと言う経緯があります。)
ただ、日本本土も空襲による被害は甚大で、所々に焼け跡が無残な姿をさらしていたもので、昭和40年代初頭まではその片鱗を伺いうことができたものです。
現在は、コンサートなどで賑わう、大阪城ホール付近も、かつては陸軍工廠が在った所で、昭和40年頃までは、その区画だけが廃墟のようにぽつんと空いていたことを思い出すことが出来ます。
また、為替レートが1$360円の固定相場に固定されていたため、輸出には有利でしたが、当時は渡航制限も撤廃されておらず、かつ外貨持ち出しも制限されていたため、現在のように誰でもが気軽に海外に遊びに行けるといったことはほとんど不可能でした。
当時壽屋(現・サントリー)が「トリスを飲んでハワイに行こう」というキャッチフレーズで、アンクルトリスのイラストとともに有名になったのも昭和30年代です、50代以上の方には懐かしい思い出ではないでしょうか。 国鉄に目を向けてみますと、昭和27年以降、本格的に幹線の電化が実施され、昭和27年4月1日に高崎線の大宮~高崎間が完成、昭和28年には東海道線が名古屋まで電化完成、昭和30年7月に米原まで到達し、全線電化が完成したのは、昭和31年11月19日に完成、EF58形電気機関車が青大将塗装と呼ばれる淡いグリーンに塗られて走ったのもこの頃でした。また同じ時期には、現在は廃止されてしまった、「あさかぜ」号が、戦前の常識を破って、大阪通過の特急列車として運転を開始したことです。
再び、昭和30年代に話を戻してみますと、昭和30年には鳩山首相は、依然憲法改正論議に積極的であり、押し付けられた憲法を改正すべきとの持論を展開しますが、与野党の反対により消滅していきました。

https://youtu.be/dnyOQEg4Rvc
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輸送力増強と国鉄 第6話 ディーゼル機関車の開発と頓挫

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ECAFEで展示されたDD50... ECAFEで展示されたDD50形機関車(第2次形)
画像 wikipedia
 戦前からディーゼル機関車並びにディーゼル動車の研究は進められていましたが、太平洋戦争(大東亜戦争)により石油が流通しなくなったことから研究は頓挫していました。
  戦後はローカル線経営における輸送改善の見地から山間部を走るローカル線などを中心にそういった無煙化に関する要請が強くなったこともあり、再び研究が開始されました。
戦前にもDC10、DC11、DB10と言った機関車が輸入され若しくは試作されましたが、出力が小さくせいぜい入換用機関車程度のものでしかありませんでした。
 また、戦後大きく発展するディゼルカーについては、戦前にほぼ完成していたエンジン(ガソリンエンジン GMH17をベースにディーゼル化したDNH17)とこれまた戦前に完成していた液体変速機を載せたものが開発されました。(この辺はまた別の機会に書かせていただきます。)
 国産での大型機関車の開発に時間がかかることから、昭和28年にはDD50形ディゼル機関車が実用化されます、この機関車はスルザー形ディゼル機関(900PS)に発電機を搭載、130KWモータ4台を駆動する方式で、片運転台で当時人気のあった湘南形スタイルの前面マスクを意識していたものでした。
 早速、昭和28年には1次車3両が製造され、翌年更に2次車3両が製作され、全車北陸本線に投入されました。
 出力的にはD51形蒸気機関車を少し下回る性能という触れ込みでしたが、実際の運用では、短編成の旅客車を家人できる程度であり、方向転換にSL同様転車台を必要とすることから、常に重連使用を余儀なくされることから使い勝手はあまり良いとはいえませんでした。
 晩年は北陸本線、米原~田村間の小運転に使用されたりして昭和50年頃にその姿を消しました。(電化当初、北陸本線は坂田~田村間には架線を張っていなかったので、列車は米原及び田村で機関車交換を行なっていた。)田村駅が無人駅でありながら広い構内を持つのは当時の名残。)
 その後、DD50のエンジンの出力を増大したDF50が昭和31年に登場し、ここにひとまず亜幹線向けの機関車の標準型が出来上がりました。
ただし、電気式の欠点として、構造が複雑で重量も重く、当然車両単価も高くなるので、比較的安価で、軽量化が可能な液体式の研究も引続き行なわれていました。
 また、現場の回想としてDF50も故障が多く、かなり苦労したと言った記述を見ることができます。
 また、昭和30年代には、鉄道車両業界は多くの試作機関車を試作しては国鉄で試用してもらっていました。
 成績良好な機関車jはそのまま購入されたりしましたは、多くは試用の後返却されました。
 有名なところでは常磐線で試用されてその後、購入されたDF40 (後DF90)や、DF41(後のDF91)や、山陰本線で試用されたDD91(DD54のベースとなった機関車)などが上げられます。
 余談ですが、DF90はエンジン音が非常に大きく今では騒音問題で苦情になるレベルでは無かったかと思われます。
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輸送力増強と国鉄 第5話 機関車の再改造と輸送力増強

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京都鉄道博物館に保存されている... 京都鉄道博物館に保存されているC6226
 戦時中に製作された、EF13、D52などは、通勤形電車の63形同様、戦時設計と言われる構造であったため代用部品や、設計の簡略化などが行なわれており、実際にD52形蒸気機関車では走行中にボイラが爆発して、機関士が死亡するといった事故が発生しています。
 そこで、これら機関車の標準化改造行なうとともに、一部は増えつつあった旅客輸送に転用するため、昭和26年頃から貨物機関車を旅客用機関車に改造する工事が行なわれることとなりました。
 現在、日本最大の機関車として、今も人気の高いC62形蒸気機関車は、D52形のボイラを流用した蒸気機関車です。 また、それとは別に、戦前は国防上の理由で、電化が制限されていた東海道線など幹線が電化され始めたため、幹線用の大型蒸気機関車を地方線区に転用する必要が生じました。
 そのため従輪(運転席よりの車輪)を一軸から二軸に改造する工事が、昭和25年から行なわれ、(幹線用の機関車は当時、軸重15t~16t、地方線区では14t程度)D52改造のD62を筆頭に、D50形改造のD60形、C59改造のC60形などが誕生しました。
他に、D51のボイラなどを流用した、C61もこの時期に誕生しています。

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輸送力増強と国鉄 第4話 湘南電車に見られる、電車の活躍

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戦後の鉄道車両に多大な影響を持... 戦後の鉄道車両に多大な影響を持たせた2枚窓の80系電車
私鉄にも影響を与えた他、157系電車のデザインは発展型とも言われています。
 昭和25年3月、東京~沼津間に80形電車による運転が始まりました。これまでは電車といえば近距離での輸送が常識を覆すものでした。 現在も使われている、オレンジと緑の塗り分けは、茶色若しくは黒しか見たことが無かった人々には驚きの目を持って迎えられました。最も当初は赤味の強いオレンジ色であったため後に修正したと言われています。
また、湘南地方の蜜柑の色を表現したと言うのは、後からつけた理由であり、本来はとにかく明るい色を・・・と言う理由から選ばれたそうです。
この電車、当初の計画では15両編成+荷物車の最高16両編成が東京~沼津間を60分間隔、小田原までは30分間隔(ラッシュ時は15分間隔)で運転すると言う方向で進められこれに伴う車両の発注も計画されたそうですが、折からのドッジ旋風(ドッジ・ラインの縮小経済をこのように呼んだ。)により、発注数は縮小されました。
 結局発注数は、73両と大幅に縮小されましたが、その後の高速電車の礎を築くこととなりました。
この電車の登場は、戦後のすさんだ風潮の中で未来への期待を持たせるものとして役立ちました。
  特に、昭和26年の増備車から採用された流線型2枚窓は、中央部をくの字型にさせた構造で、先頭車の通称金太郎塗りとあいまって、一世を風靡したものです。
その後このスタイルは、多くの私鉄にも影響を与え、各社で非貫通、2枚窓の湘南形の亜流とも言うべき車両が全国で誕生した他同時期に誕生した気動車にも影響を与えました。

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輸送力増強と国鉄 第3話 貨物輸送の改善

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ワキ1000の緩急車、ワムフ1... ワキ1000の緩急車、ワムフ100形、コンテナ輸送が始まるまでの小口輸送用の急行便として活躍

画像 wikipedia
 昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定され、汐留~門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。
  改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。
その後、朝鮮特需で需要は伸びたが、ピークを過ぎると貨車の遊休が目立つようになったので国鉄では、サービスアップと貨車の有効活用を図るために、昭和27年9月から小口貨物の速達輸送を図るべく。
「急行小口扱」を新設、貨車にも「急行便」の文字が書かれた専用貨車が使われました。これは、後にコンテナ輸送が本格化するまでは、花形列車として活躍することとなります。
この一環輸送は翌28年には更に拡充され、自動車を活用して都市の小口扱い貨物の特定駅への集約や地方における自動車代行などが実施され、東京都内や名古屋地区、仙石線、八戸線などでは国鉄自動車局が貨車代行輸送を行ったという実績があります。
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日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
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輸送力増強と国鉄 第2話 講和条約後の日本

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輸送力増強と国鉄 第2話 講和...
 講和を獲得後日本は、国際的には独立国となりましたが、まだまだ10年戦争による疲弊は続き未だ国民の生活は豊かなものではありませんでした。
しかし、昭和30年代に入ると、次第に戦後復興と言われた時代は終わり、池田内閣の所得倍増計画に見られるように、より豊かな生活を目指して経済が活発化していきました。
そうなってくると、戦争中に酷使した施設の老朽化が目立つようになってきて、輸送力に保安設備が追いつかないといった事態となりました。
特に車両と軌道の状態を早急に改善する必要がありました。
軌道については昭和27年からレールの重軌条化が推進されていきます。
具体的には、D50形・D51形蒸気機関車の入線する区間及び年間通過トン数500万トン以上の線区では30kgレールを37kgレールに、C57、C62、D52形などの入線する線区で、かつ通過トン数1000万トン以上の線区では37kgレールを50kgレールに交換する工事が9ヶ年計画で開始されました。(現在多くの路線が50kgレールであることを考えると雲泥の差がありますが、当時は30kgレールなどが結構見られたものです。)
それと並行して保線作業の近代化も進められマルチプルタイタンパー、バラストクリーナーなどの機械が導入されるなど従来の鶴嘴を持ってつき固めといった作業がなくなりました。こえにより、保線区ごとに伝統的に歌われていた、保線区の歌なども次第に消えていきました。
この他、木材不足から鉄筋コンクリート枕木の生産を計画、昭和27年からコンクリート枕木が使用を開始しています。
一方、戦後復興の一環として地方自治体などでは駅前広場の整備が要望されました。
駅舎は本来鉄道の所有物のため鉄道会社が整備すべきものとされていましたが、そこまで手が回らないのが実情であり、駅舎の復旧・建設費用の一部または全額を地元に負担してもらう代わりに駅舎内に商店・食堂などの商業施設を設ける「民衆駅」構想も生まれました。
この方針に基づき、昭和23年の豊橋駅(戦後最初の民衆駅と言われている。)を皮切りに各地で申請が出されましたが、契約方式などで問題が表面化し、昭和29年には民衆駅の施設及び運営に係るさまざまな基準が設けられました。
更に昭和32年には、輸送力の増強を主眼とした第1次5ヶ年計画が策定され以下のような方針が決定されました。
①老朽施設を更新して資産の健全化を図り、輸送の安全を確保する。
②現在の輸送の行き詰まりの打開と無理な輸送の緩和を図り、増大する輸送需要に応じる ような輸送力を強化する。
③サービス改善と経費節減のため、輸送方式、動力、設備近代化の推進
でありました。
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輸送力増強と国鉄 第1回 輸送力増強

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雑誌 国鉄線 昭和31年10月... 雑誌 国鉄線 昭和31年10月号から引用


この章では、戦後の復興に向けての輸送力の増強を中心にお話をして行きたいと思います。昭和30年代のお話につきましては章を改めて行ないたいと思います。

輸送力増強

昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。
 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。
 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。
全国から約16万通の応募があり、その中から1,500余通を占めた「つばめ」が選ばれました。これにより、昭和25年1月1日をもって「へいわ」は「つばめ」に改称されました。
余談ですが、初代「へいわ」に使われたテールマークと「はと」のデザインは全く同じ物が使われています。さらに、同年5月11日には姉妹特急として「はと」が運転を開始しました。
5月には、特急列車「つばめ」に特別2等車(現在のグリーン車)が連結されました。
これは、GHQの民間輸送局(CTS)といって、国鉄の基本的な政策などを勧告と指示を与えるポスト)のシャグノン大佐という人の強い要望(強制?)によると言われています。
このとき作られた特別2等車がスロ60と言われる形式で定員は44人と現在の標準的な車両よりもゆったりとした設計になっていました。この車両は主に外国人専用として使われたようです。
  その後、当時の日本人向けにシートの間隔を狭めたスロ50(定員48人)、スロ51(定員52人)の3形式が登場しました。
従来の向かい合わせ式の2等車は並2等(並ロ)、リクライニング装備の2等車は特二等(特ロ)と呼ばれて区別され、特別2等車には特別料金が設けられました。
これらの車両は現在のグリーン車の基礎を築いたという点では注目すべきものであり、すこぶる評判の悪かったCTSにおいて唯一評価できるものといわれています。

なお、国鉄当局は当初は1等車扱いにしたかったようですが、許可が下りず止む無く特別2等車という名称にしたわけで、結果的に2等車の全体的なかさ上げが出来たと言われています。
#鉄道省 #鉄道 #国鉄 #JNR #歴史 #社会史 #近代史

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