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高度経済成長と輸送力増強 第6話 踏切事故増加と踏切道改良促進法

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自動車の保有台数 自動車の保有台数 踏切事故件数 昭和38年 国鉄... 踏切事故件数 昭和38年 国鉄監査報告書から引用
増える自動車登録台数と踏切事故

昭和30年代の経済成長は、旅客並びに貨物輸送の増大に伴う輸送力増強や。投資不足に伴う数々の事故を発生させたほか、経済の発展は自家用車の登録を増加させていきました。
踏切事故件数および自動車台数を見ていただくとわかるのですが、昭和31年以降急激に伸びていることがわかります。
弊サイトでは、当時の事件事故を年表にしていますが、昭和30年代は無謀運転のトラックや乗用車の他、バスとの接触事故などが後を絶ちません。
特に踏切事故では自動車の乗員が死亡する等悲惨な事故になる場合が多く、その対策は急務とされましたが、踏切対策以前に輸送力の増強に追われていたため。その整備は後手に回るのでした。

当時の踏切事情

鉄道の踏切には、第1種~第4種まであり、現在は第2種と呼ばれる踏切はなくなりましたものの、一部に第3種・第4種と呼ばれる踏切が存在します。

第4種は、踏切の警報器も遮断機もない踏切で、ローカル線の一部には現在も存在しています。
第3種は、警報器はありますが、遮断機がない踏切で、こちらも現在でも残されている区間があります。
そして、第1種と呼ばれるものが、皆さんが一般的に認識している遮断機も警報器もある踏切であり、遮断機がおり始めたら決して入らないことが原則となります。
そして、現在は廃止になりましたが第2種という踏切は、昼間は踏切の保安員がいて昇降を行いますものの、夜間には無人となり第4種踏切と同じ状況になるものでした。
これは、第1種が元々踏切保安員が常駐して踏切の上げ下げを行うことを前提としていたためです。

鉄道としても踏切事故対策はないがしろに出来ない問題となり、昭和36年以降は輸送力増強と並行して踏切の整備にも取り組むこととなり、自動車の保有台数は増えつつも事故件数は減少傾向になることになりました。
また昭和36年には、「踏切道改良促進法 法律第百九十五号(昭三六・一一・七)」が制定されました。
一部条文を抜粋しますと

(指定)

第三条 運輸大臣及び建設大臣は、踏切道における交通量、踏切事故の発生状況その他の事情を考慮して運輸省令、建設省令で定める基準に従い、昭和三十六年度以降の五箇年間において立体交差化又は構造の改良(踏切道に接続する鉄道又は道路の構造の改良を含む。)により改良することが必要と認められる踏切道について、その改良の方法を定めて、指定するものとする。

2 運輸大臣は、踏切道における交通量、踏切事故の発生状況その他の事情を考慮して運輸省令で定める基準に従い、昭和三十六年度以降の五箇年間において保安設備の整備により改良することが必要と認められる踏切道について、その改良の方法を定めて、指定するものとする。

3 運輸大臣及び建設大臣又は運輸大臣は、第一項又は前項の規定による指定をしたときは、その旨を、当該鉄道事業者(軌道経営者を含む。以下同じ。)及び道路管理者(前条に規定する道路の管理者をいう。以下同じ。)又は当該鉄道事業者に通知するとともに、告示しなければならない。

中略
 (改良の実施)

第五条 鉄道事業者又は道路管理者は、立体交差化計画若しくは構造改良計画又は保安設備整備計画に従い、当該踏切道の改良を実施しなければならない。

 (費用の負担)

第六条 立体交差化計画又は構造改良計画の実施に要する費用は、鉄道事業者及び道路管理者が協議して負担するものとする。

1 保安設備整備計画の実施に要する費用は、鉄道事業者が負担するものとする。

当初は昭和41年までの時限立法でしたが現在も法令としては効力を持っています。
なお、立体交差化については、「実施に要する費用は、鉄道事業者及び道路管理者が協議して負担するものとする。」となっていましたが、「保安設備整備計画の実施に要する費用は、鉄道事業者が負担するものとする。」とあるように、国鉄にしてみればと必要なこととはいえ、第二次長期計画に加えて、こうした費用を捻出することが必要となってきたため、その財源を探す必要に迫られました。

なお、これにより踏切の整備をすることが法的に定められることとなり、徐々にですが踏切事故は減少することとなりました。
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高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故

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高度経済成長と輸送力増強 第5... 鶴見事故現場 鉄道ピクトリアル... 鶴見事故現場 鉄道ピクトリアル 昭和37年12月号から引用
当時の事故の詳細図
高度経済成長と輸送力増強 第5話 鶴見事故

一昨日は、三河島事故のお話をさせていただきました。
三河島事故の場合、国鉄の事故報告書では本線への合流前に信号を無視したことで機関車が安全側線に進入、本線を支障した、となっています。
当時の部内誌などを見ますと、出発信号並びに場内信号のいずれも無視したと言う記述も見られます。
二回の停止現示をいずれも見落としたと言うことになります。
おそらく、当時の国鉄線などという雑誌に書かれているように、出発信号機を見落とした上、場内信号機を通過したという可能性は捨てきれないと思います。
こうした事故が起こった場合、それまでに潜在的な問題があったと思われます。
いわゆる、ハインリッヒの法則という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、この伏線は単純に信号を見落とした・・・だけではないと思います。
また、事故後5分間の乗務員の行動も問題視されました。
列車防護が出来なかったのでしょうか・・・。

こうした問題がクローズアップされ、ATS【列車停止装置】の導入を前倒しで背導入することとなり、昭和41年には、新幹線を除く全線にATSが設置されることになりました。
実際には、確認ボタンを押すとATSが実質解放されてしまうという潜在的な問題があり、追突事故は起こりました。

国鉄の信頼は地に落ち、信頼回復に向けて十河総裁以下精力的に取り組むことになりました。しかし、翌年の昭和38年5月では、再任されず辞任することになりましたが、これは三河島事故の責任ではなく、新幹線建設費が当初予算よりも高騰したことに対して責任を取らされた形でした、この辺は後述しますが、当初から過小に見積もっていたという意見もありますが、それ以上の物件費上昇が大きかったのではないかと思います、ただし、当時は新幹線の成功自体が疑問視されていたため、体よく追い出したというのが現実ではないかと思います。
実際、新幹線開業式には十河総裁は呼ばれなかったことがその証左と言えます。
十河総裁の後を継いだのは、十河総裁当時監査委員長を務めていた石田禮助氏でした。

石田氏が就任して半年後の11月9日、国鉄は大事故を引き起こしてしまいます。
死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事の鶴見事故が起こります。
三河島事故の異なるのは、貨車が突然脱線して、隣の線路を支障、そこへ横須賀線の電車が90 km/h程度の速度で接触して脱線、ほぼ同時刻に走っていた対向列車の4両目に突き刺さる形になり、後続の電車に押される形で4両目を破壊、5両目の半分で停止した事故で、4両目は台枠以外は原形を残さない状態でした。

この事故では、主たる原因は、ワラ1形が突然脱線したことが原因でしたが、当初は国鉄の過密ダイヤが原因だと指摘されたりしました。
実際には、この当時は国鉄のダイヤはかなり逼迫していたのも事実でした。
当時の世論としては、国鉄の事故に対する批判もさることながら安全対策や輸送力の不足が、国鉄だけではなく国全体の問題としてクローズアップされることになりました、

鶴見事故の詳細については、後日監査報告書を参照して詳細をアップさせていただきます。

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高度経済成長と輸送力増強 第4話 三河島事故

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https://www.you... https://www.youtube.com/watch?v=_vvI4-zunRs
昭和37年のニュース「三河島事故」④(終)
三河島事故 Wikipedia... 三河島事故 Wikipediaから
昭和36年からの第二次長期計画は、車両の増備を中心に輸送力増強に努めたのであるがそれでも経済の発展に追いつけず、慢性的な輸送力不足を呈しており、複線化が急がれていたのですが、昭和37年5月に、国鉄にとっては悪夢のような事故が起こりました。
死者160人、重軽傷者296人を出す大惨事、三河島事故でした。
当時の概要は、既に多くの記事等でご覧の方も多いかと思いますので、詳細な解説は省略しますが、貨物列車の乗務員が信号を見落として本線に進入、安全側線に突入したが止まりきれずにそのまま本線を支障、そこに上野発、取手行き電車(2117H)が接触 1.2両目が脱線して、今度は対向線を支障、乗客はドアを開けて線路沿いに歩きかけたところ、今度は、事故を知らされていない上野行き電車(2000H)が進入、徒歩で避難していた乗客を刎ねながら、上野行き電車先頭車と衝突、1.2両目を破壊しながら200H電車は4両が脱線、大破 1両目は原形をとどめず、2,3両目も築堤下に転落。
この事故で、2000Hの乗務員が死亡しています。

国鉄では、常磐穂三河島駅列車衝突事故特別監査報告書を6月14日に提出
それによりますと、 事故の原因として、貨物列車乗務員の信号見落とし並びに、駅および車掌などが後方業務の停止措置を怠ったことが原因であったとしています。

以下、本文から抜粋

事故の直接原因については、細部に不明な点もありますが、国鉄の調査に基づいて検討した結果、次のごとく推定される。
(1) 事故の直接の原因は、下り第287貨物列車の機関車乗務員が三河島駅の出発信号機の停止信号を確認せず、そのため列車が安全側線に突入脱線したことによる 。
この事故の結果を悲惨なものとした原因は、第1の衝突により 、下り第2117H 電車が上り本線を支障したが、約6分後進入してきた上り第2000H電車に対して、防護処置をなすべき関係乗務員および関係駅職員の行動に遺憾の点があったためと思われる。

当時の世論などは、どうだったでしょうか。
当時の部内誌の記事を参照しますと、当時の世論では、機関士の信号見落としは、業務に対する士気の低下では無いのかと言う精神論を討論調が大半を占める中、人間はミスをするものであるから、ミスを未然に防ぐための仕組みを作る必要と言う意見もあったと紹介されています。

昭和37年8月号の国鉄線の記事から引用させていただきますと。
 三河島事故直後の世論は「職貝の士気の弛緩と訓練不足」と「保安施設の不備」を指摘するものがもっとも多く、そこから「国鉄に対する不信感」をかもし出したのであるが、東京・社説(六・一六)は「保安設備を改善せよ、といっているのも当然である。いかに安全運転を心がけても、施設が不十分では事故をなくすわけにはいかない。現状をみると、自動停止装置をとりつけているところは、東海道、中央、山手の各線ぐらいのもので、他の殆んどは相も変らず人間の手で行なわれている。人間の眼とカンに頼っていたのでは、いかに注意深い人間でも時として錯誤はまぬかれず、しばしば大きな事故の原因となっている。」と物心両面の安全確保を主張している。

結果的には、国鉄にしてみればATSなどの非常停止装置の措置は喫緊の課題となり、輸送力増強の投資に併せて、安全運行のための措置にも大きく予算を配分する必要に迫られるのでした。
なお、常磐線にあっては、ATS整備の他、常磐線用防護無線が整備されることになったのはご存じの通りです。
余談ですが、「ある機関助士」は三河島事故を受けて安全確保に尽力していることをアピールするための映像として依頼したのですが、国鉄の意向とは異なり一般公開されないままお蔵入りになった映像でした。

その後は、名作としての誉れが高いのは皆様ご存じの通りかと思います。」

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第3話 慢性的な輸送力不足

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高崎発上野行き普通列車 724... 高崎発上野行き普通列車 724列車
動画は下記をご覧ください。
https://youtu.be/q46dgvSsUhM
高崎線724列車時刻表 高崎線724列車時刻表
第二次長期計画は、主に車両の増備等がメインであったと昨日は書かせていただきました。
特に電車や気動車の投資効率が高かったため、国鉄は積極的にそうした車両を投入していったわけですが、YouTubeを検索してみますと昭和35年の高崎線の列車通勤風景が写った動画がありました。
調べてみますと、高崎6:05発上野行きで、上野着は8:25で休日運休の客車列車だったようです。
その5分前並びに11分後にも上野行きの列車が走っていますが連日このような混雑だったのでしょうか。
少し興味はあります、併せて当時の時刻表を貼らせていただきましたので併せてご覧ください。
少なくとも、高崎線に限らず、中央線などでもその問題は大きくクローズアップされ、101系電車などが優先的に投入されたことからもその混雑が大きかったことがうかがえるのですが、当時の昭和35年の国鉄監査報告書を参照しますと、昭和36年度も35年度の引き続き毎年旅客で6%の伸張、貨物輸送にあっても昭和35年度8%、昭和36年度7%と毎年増加し続け、貨物輸送も活発化していた時期でもありました。
特に吹田操車場などでは、ヤードに到着する貨車を捌いても捌いても次から次へ貨車が到着して向こうが見えなかったと言われるほど貨車の到着が多かったと言われています。

また、旅客の嗜好にも変化が見られ、より速い列車を選択する傾向が高くなったことから積極的な優等列車の増発がはかられる反面、投資のための費用を自ら生み出すことを目的として運賃値上げが昭和32年と36年6月運賃が改定されていますが、多少の運賃値上げによる旅客収入の伸びに鈍化が見られましたが、概ね右肩上がりの順調さを示していましたが、それでも高崎線の上記列車に見られるような痛勤も有ったようですし、程度の差こそあれ多くの列車が満員で、年末などの繁忙期では、列車に乗るために前日から駅の待合で過ごし、ダフ屋【今で言う転売屋】が跋扈する、そんな時代でした。
年末やお盆の時期には上野駅や大阪駅ではテント村なる待合施設が出現し、季節の風物詩として話題になったものです。
しかし、国鉄の輸送力増強施策は、国の経済成長にはなかなか追いつけず、特に自動車の発達による踏切事故の多発は、鉄道事業者にとっても頭の痛い問題でした。
当時の運輸省の考え方は、鉄道は地域独占の事業であり踏切の整備等はすべて鉄道事業者の責任とされており、そうした対策への費用も振り向けざるを得なかったのですが、さらに昭和37年には、三河島事件という大きな事故を国鉄は起こすことになるのですがこの辺は、明日またお話しさせていただきます。

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高度経済成長と第2次5カ年計画 第2話 動力近代化よもやま話

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動力近代化として、気動車の増備... 動力近代化として、気動車の増備が続けられました。
昭和36年度を初年度とする第2次5カ年計画は、当初の投資総額が9,750億円という巨額であり、その概要は下記の通りとなっていました。

第2次5箇年計画の内容は,次のとおりです。
 (1) 東海道線に広軌鉄道を増設すること。
 (2) 主要幹線区約1100キロを複線化し,150キロの複線化に着手すること。
 (3) 主要幹線区を中心に約1700キロの電化を行い,これを電車化すること。
 (4) 非電化区間および支線区の輸送改善のために約2600両のディーゼル動車と約500両のディーゼル機関車を投入すること。
 (5) 通勤輸送の改善のために,約1100両の電車を投入するとともに,駅その他の施設を改良すること。

特に、この時期に国鉄が一番力を入れたのは、気動車や電車でした。
特に気動車に力を入れたようですが、これは、蒸気機関車を電気機関車やデイーゼル機関車で取り替えるよりも、気動車や電車による取り替えの方が、資金効率が高かったからだと言われています。【資金効率とは、年間経費の節減額を投資額で割った比率】
実際にどのくらい変わるのかといいますと、蒸気機関車→電気・ディーゼル機関車の置き換えが8~15%、電車・気動車に置き換えた場合、50%~80%と極めて高いため、旅客車は極力電車や気動車を採用する方向になっていったと言われています。
特に、昭和25年の湘南電車の成功はその後長距離電車の可能性を生み、昭和33年には「特急こだま」を誕生させており、その後準急用として153系、さらに急行用設備を153系に付加したサロ152やサハシ153を誕生させていきましたし。
気動車列車も、特急はつかりに代表される特急車両や、急行用気動車キハ28・58を誕生させるなど多数の動力分散列車が誕生することになりました。

特に、電化の場合変電所の設置など固定設備の費用もかかるのに対し、気動車列車の場合は車両の投入だけということもあり、その投資効果は極めて高く、かつ無煙化による旅客サービスの向上を同時に図ることが出来るためその効果は極めて大きかったと言われています。
また、こうして無煙化された線区で使われていた蒸気機関車は玉突きで。老朽化した機関車の置き換えに使われましたが、C59のように重幹線線用機関車はC53同様比較的早い時期に淘汰されてしまいました。
結局、大正時代のに製造された8620や9600が最後まで残り、昭和になって誕生したC59が昭和40年代前半には消えてしまうことになるのですが。

大型蒸気は、地方管理局では固定資産としての費用が増え、場合によっては出力過剰による石炭の浪費などであまり好かれなかったという記事もあります。

久保田 博氏が、国鉄部内誌、交通技術【昭和37年1月号】の下記記事

「蒸気機関車のゆくえ、修正された蒸気機関車の転用廃車計画」で下記のように書かれていました。

この転用計画で、D52,C60の大形形式を受け入れた地方管理局は、資産単価増に伴う償却費の増加や、不適応小単位列車牽引による動力費の増のため、とかく非協力的であって、36
年度以降の実行に相当の困難を覚悟させられた。

と書かれています。

第2次5カ年計画で気動車や電車列車が増発された背景には投資効率が高かったと言う点も見逃してはいけないのではないでしょうか。
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高度経済成長と第2次5カ年計画 第1話

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高度経済成長と第2次5カ年計画...
本日から、国有鉄私見として第2次5カ年計画についてお話をさせていただこうともいます。

高度経済成長と輸送力増強 第3話 第2次5か年計画と国鉄 
http://jp.bloguru.com/jnrerablackcat/311526/5 
も併せて参照していただければ幸いです。

昭和32年から始まった5カ年計画は、主に老朽資産の取り替えなどを中心に行われましたが、人件費の高騰などで計画予算が枯渇したこともあって、計画自体を変更せざるを得なくなりました。【これに関しては国鉄だけに帰属する問題では無く、国民経済成長に国鉄の輸送力が追いつかなかったという側面もありました。】

一般に資料などを見ていますと、資金不足で頓挫したと書かれている文献が多いのですが、実際はどうだったのかという点を国鉄線昭和35年4月号を参照しますと、古川審議室調査役の発言がありますので、要約させていただきますと、下記の通りとなります。

昭和35年度の第1次5カ年計画の進捗率は、【昭和31年度を初年度として4年目ですので】計画値80%となるのですが、実際には67%しか進んでいない状況であり、その原因は下記の通りだと報告しています。
それは、当初計画には無かった通信の近代化、おそらく(鉄道電話用交換機の交換で、当時の最新式であったクロスバー式交換機の更改】だと思われます。他にも貨物輸送の近代化も積極的に行おうとして、全般的に資金不足のために予定がずれたと弁明しています。
第1次5カ年計画における3本柱であった、老朽施設の取り替えは順調に進んだ反面、輸送力の増強と動力近代化は40%程度しか達成できなかったと発言しています。

そこで、国鉄では、国の長期経済展望に対応するために昭和36年度を初年度とする新5カ年計画が再び制定されることになりました。
第2次5カ年計画の特徴は、老朽車両の取り替えと線路増設が大きな柱であり、輸送力を増強して、輸送力の増強と輸送方式の近代化を行うことを主眼にしており、ちょうど、第2次5カ年計画とサンロクトウと呼ばれました。白紙ダイヤ改正の時期とも重なることとなりました。

新5カ年計画の投資内容は上記の字を参照していただければわかりますが、車両費にも2610億円【全体計画の25%弱を占めているのがご理解いただけると思います。

また、この計画では新幹線建設計画も盛り込まれており、新幹線以外では主要幹線1000 kmの線増を行うほか1800 kmの電化、電車かを行うことが計画に盛り込まれています。
【国鉄監査報告書昭和35年から引用】

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気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話

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戦前の気動車キハ43000 画... 戦前の気動車キハ43000 画像 Wikipedia 戦後試作された電気式気動車 キ... 戦後試作された電気式気動車 キハ44000(第1次試作車)国鉄線から引用 キハ44000~キハ44500... キハ44000~キハ44500 側面図 交通技術から引用
本日は、戦後の電気式気動車のお話をさせていただこうと思います。
電気式気動車自体は、戦前キハ43000形式が試作されましたが、戦争の激化により開発は中止、戦後は中間付随車が電車の付随車として飯田線で使われたそうです。
さて、今回は戦後試作された電気式気動車、キハ44000のお話を中心にさせていただきます。
開発が再開されたディーゼル気動車
戦後しばらくの間は、石油も未だ自由に使うことができず、かつ列車増発の要請も強かったことから、千葉並びに新潟では天然ガスが噴出することから。天然ガスを動力源とする天然ガス動車が改造で使用されましたが、石油も比較的安価に流通するようになったこと、特に軽油は比較的安く手に入ることから戦前から試作されていたディーゼル機関を使った気動車を使う気運が高まってきました。
軽油はガソリンと比べて引火の危険性が少なく、ガソリンの1/4の価格で調達できるとのことで注目されました。
試作気動車、キハ44000誕生
そこで、昭和27年8月、2両編成各2の4両が製造(日車及び汽車が製造)され木更津機関支区(当時の名称)に配置され。房総線で活躍しました。
その後、好評であったため追加で11両が製造された他、九州向けには、仕様を一部変更し、乗降口が両端2か所のキハ44100、中間車のキハ44200(後液体式改造後はキハ19)が合計15両製造され、こちらは、北九州地区で活躍しています。
比較として試作された液体式気動車 キハ44500
更に、これ以外に比較のために液体式気動車の試作として、キハ43000形と同じ車体としたキハ44500形4両を試作車として製造、川越線などで試用されたと記録が残っています。
最終的に液体式を国鉄としては選択
以下に、液体式(当時の資料では液圧式)は電気式と比較した場合、電気式の方はエンジンを常に最適な回転数を保っておけ、速度制御も容易ですが車体重量が大きくなるほか液体式と比較すると変換効率が悪い(液体式の場合高速域ではエンジン直結となるため結果的に効率は高くなる)こと 等の理由から、その後の国鉄形ディーゼル機関車は気動車で増備されることとなり、量産型としてキハ45000(後のキハ17)が誕生することになるのですが、その辺のお話は明日以降にさせていただきます。
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気動車の発展と開発 天然ガス動車のお話 第2話

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キハ42000の一部は、天然ガ... キハ42000の一部は、天然ガス動車に改造されたが、その後軽油の供給が増えたことで、天然ガス動車は3年程度で廃止され、ディーゼル機関の気動車に再改造されました。
戦後の仇花、天然ガス動車
今回は、戦後一時的に使われた天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。
戦後の一時期、新潟県と千葉県で天然ガスが採取できたことから。
ガソリン不足で休車となっていたキハ42000(後のキハ07)を改造して天然ガスで走れるようにした車両が存在したそうです。
天然ガスが噴出する千葉では鉄道の救世主に
そこで、当時の技術資料などを参考にしてみますと、昭和21年頃から天然ガス動車を活用してはどうかという意見があったそうです。
天然ガス動車の技術は昭和10年頃には完成していたそうで、小湊鉄道は昭和16年に内燃気動車(ガソリン車)の天然ガス気動車化の改造を行い戦時中も気動車を運転したと言う記録もあります。
当時の総武線は車両の老朽化が著しく、輸送力が慢性的に不足していたこともあり、千葉区におけるガスカーの導入は待望されたものでした。
天然ガス動車の問題点
当時の資料などを参考に調べてみますと。
天然ガス動車の運転開始は概ね昭和23年頃であり、昭和27年にはDMH17エンジンに換装されて消滅しています。
天然ガス動車は、ガソリンエンジンを使う気動車と比べれば割安でしたが、
1)出力は、ガソリン機関と比べて、85%程度の出力
2)床下にボンベを搭載しなくてはならず、重量面でも不利
といった問題点がありました。
当時の石油事情に振り回された、天然ガス動車
また、天然ガス動車は、ガソリンエンジンの気動車と比べても割高という問題もありましたが、ディーゼルエンジンの軽油+天然ガスで走らせる、混合型にしますと、ガソリン車よりも安く出来るようになったそうで、本格的な天然ガス動車の発展が期待されたのですが、軽油の供給が安定したこともあり結局、天然ガス動車はその使命を終えて消えて行きました。

なお、天然ガス動車では、キハ41000(後のキハ04)では、ボンベを8本、キハ42000(後のキハ07))では、12本~16本を床下に搭載していたそうで、ボンベ1本あたり10㎞~12㎞でしたので、キハ42000で、120 km~144 km、空ボンベを一本一本取り替える方式でしたが、その後は親ボンベから充填する方式に、昭和25年時点ではガス会社に引き込み栓を、設けて直接ガス会社で充てんする方式に変更したと記述があります。
その後は、
なお、ボンベ1本あたり10 km~12㎞程度しか走れず、120 km~144㎞程度であり、当初は終着駅でボンベを積み替える作業が伴っていたそうですが、その後はガス会社に直接引き込み線を伸ばして、直接ボンベに充填する方式に変更されたそうです。

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気動車の発展と開発  戦前の気動車のお話 第1話

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キハ07 九種鉄道記念館(画像... キハ07 九種鉄道記念館(画像 wikipedia)
西成線列車脱線火災事故(画像 ... 西成線列車脱線火災事故(画像 wikipedia)
1)戦前はガソリン動車、戦後はディーゼル動車
戦前の国鉄でも、実は気動車は運用されており、特に地方ローカル線などでは経営の合理化として使われる例がありました。
戦前の気動車としては、大宮の鉄道博物館に保存されている、キハ41000形(キハ04)やキハ07(キハ42500形)が存在しましたが、戦前はディーゼル機関車ではなく、ガソリンエンジンを搭載した気動車が一般的でした。
ディーゼル機関の開発は遅く、試作エンジンが、昭和11年に作られました。
試行錯誤の結果、予燃焼室付きのでエンジンが開発され一応の完成を見るのですが、戦争の激化により開発は中止されてしまいます。
この時試作されたエンジンがm戦後の気動車化発展の基礎をつくるDMH17ですが、その辺はもう少し後の話となります。
なお、昭和15年には西成線(現在の桜島線、安治川口駅)で駅員が列車通過中にポイントを切り替えたため車両が脱線転覆した事故がありました。
これについては、Wikipediaの西成線列車脱線火災事故に詳しく書かれていますので、詳細は省略しますが、概要は下記の通りです。
遅れていたダイヤを復旧させるために、信号掛が分岐器付近を通過中していた列車の位置を十分な確認をしないままポイントを切り替えたため、走行していた3両編成気動車の最後尾1両が、2対のレールにまたがったまま進行することとなり(泣き別れ)、同駅構内の島屋町踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆。何らかの火花などが、これまた運悪く破損していたガソリンタンクから漏れたガソリンに引火、火災が発生して189名が死亡、重軽傷者69名を出した事故です。→ 西成線列車脱線火災事故

2)戦後の一時期使われた天然ガス動車
3)10系気動車の誕生
続きます
以下は、本日の夜以降に書かせていただきます。
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2)戦後の一時期使われた天然ガス動車
3)10系気動車の誕生
続く

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国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第2話

スレッド
157系電車(画像 wikip... 157系電車(画像 wikipedia) 準急日光号運転開始当時の編成 ... 準急日光号運転開始当時の編成 Wikipedia参照
東武を震撼させた157系

157系の登場が、昭和34年、東武の1720系(DRC)の登場が昭和35年ですから、東武が157系の登場に危機感を持ったのは言うまでもありませんでした。
東武がどれ程危機感を持っていたかといいますと、昭和31年から製造していた1700系に代えて急遽新しい車両を投入したこと、更に従来車の1700系も、ボディを載せ代えて1720系と同じ仕様にしたことから伺えるとおもいます。

157系諸元

ここで、東武に1720系(DRC)を導入させる切っ掛けとなった157系について簡単に紹介させていただきます。
157系直流電車 4M2Tの6両編成   Mc+M'+T+Ts+M'+Mc
電車としては153系と同じモーター(MT46)ですが、勾配区間における抑速ブレーキとノッチ戻し機能が付加された構造で、準急電車として製造されていますが、当時の準急列車のレベルを遥かに超えたものでした。

157系電車の発展

日光号の他に、なすの号、中禅寺号があり、日光号が東京始発日光行きであったの対し、中禅寺号は、新宿発日光行きであり、なすの号は、上野から黒磯止まりとなっていました。
ただし、中禅寺号となすの号は季節列車として冬は11月21日から1月末までは運休となっており、運休期間中の間合いを利用して東京~大阪間に昭和34年には、「特急ひびき」として運転されました。
こだまと比べますと、ビュフェがありませんでしたが、2等車はリクライニング装備、3等も回転クロスシートであり、2等車のモケットが151系のモケットと異なりワインレッドのモケットであることや、冷房が付いていないことを除けば、特急列車と何ら遜色のない車両でした。
さらに、昭和36年4月1日からは、伊豆と日光の両観光地を直結する季節準急「湘南日光」が伊東~日光の間で運転されることとなりました。
この頃には、「ひびき」も2往復に増発される等、本来の日光船への直通から、東海道線にその活躍の場は移っていきました。
その後も、157系は日光線で使われるのですが、「中禅寺」・「なすの」については157系から165系に車両が置き換えられ、グレードアップどころかダウンしてしまいました。
この頃から、国鉄は東武に対して戦意を喪失したように受けられます。
結局、日光号だけが157系運転で残っていましたが。昭和44年4月25日の改正で、急行日光号も165系に置き換えられ。いよいよ日光への観光客輸送は東武に軍配があがることになりました。

東武の車両がJRに乗り入れる時代
時代は流れ、現在のように東武とJR東日本が乗入りするようになるとは夢にもおもいませんでした。

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