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Seattle is Dying.... シアトルは死に向かっている?

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Seattle is Dyin...


お時間がある時に観てください。一時間くらいのドキュメンタリーです。
シアトルの現状とともに最近の映像です。

私は、今、女性のホームレスシェルターでセラピストとしてインターンをしています。

私が、毎日目の当たりにしている現状がこれです。

毎日毎日、何人もの人たちがシェルターに入るために電話をかけてきます。
その人たちは、人生をやり直したい人たちです。

皆さん、ホームレス、アルコールまたは薬物依存症です。また、女性の場合はここで、暴力の被害者であるということも含まれてきます。

路上で生活し、薬物をやるということは、いつなんどきレイプされてもおかしくなく、また、人に騙されて身体を売るために売られたりします。

ほとんどの人たちが、暴力や性的虐待、または薬物、アルコール中毒の壊れた家庭から来ています。

世代に渡って繰り返している問題なんです。

このドキュメンタリーは物議をかもし、多くの人が見ました。

私は、セラピスト、牧師の立場から、やっぱり、魂のケア、心のケアが無ければ問題は解決しないと思っています。

ホームレスの問題だ、薬物の問題だと議論が分かれますが、
結局は、家族や心の問題なんです。

愛されること、愛すること。。。
これが根本のニードです。

このシアトルを、神様救ってください。。。と祈りつつ。
今日もインターンに行きます。。。

今日も、愛するあの患者さんを心に想って、出かけます。

誰かに愛されたと分かる時に、人は強くなれるものです。
ああ、あの人が私を大切に思ってくれているから、
もうドラッグをやめよう。今日も、さわらないでおこう。。。
と思えるんです。

誰かに愛されているから、自分に価値があること、
自分は、失敗作、ゴミだと思わなくなるものです。

誰かが、誰かを愛することは、とても力のあることです。

どうぞ、シアトルのために祈ってください。。。。
#ブログ #日常

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久々の休日

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シアトルダウンタウンをお散歩。... シアトルダウンタウンをお散歩。
鳥も鳴いているし、うす緑の新芽もとってもきれい。
春らしいなーーーー。
一人、スターバックス。 忙しく... 一人、スターバックス。
忙しくて、今までリディームしてない、リワードでランチ。
なんか、優雅やわーーー
スタバのトイレにこんなものが。... スタバのトイレにこんなものが。。。。
うん。。。
トイレでドラッグする人が多いんでしょうね。それで、バリスタさんがお掃除する時に、手をちっくんしないようにということで置いてあるんでしょうが。。。。
なんだか、ショックでした。
はーーーー

やっと、一日ゆっくりできる日ができました。

きのうから、明日は、散歩にいくぞーー

ダウンタウンに行って、ダイソーで買い物するぞーー

アンパン買うぞーー

と意気込んでいました。

今日は、すがすがしいお天気で、少し肌寒い感じでしたが、歩いていると調度いい感じ。

シアトルのダウンタウンはホームレスの人たち、観光客でにぎわっています。。。

最近、薬のニードルが問題になっています。
朝、お掃除してくれている方もいますが、

スタバにも、ニードル用のごみ箱がシンクのすぐ隣に設置されていました。

どれだけニードルがそこら中に捨てられているのかということを物語っています。

春らしくていいなーと思いながらのお散歩でしたが、
何だか、町がすごく変わってしまって、ちょっと寂しい感じもしました。

#ブログ #日常

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イエスの死 The Death of Jesus

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イエスの死 The Death...
2019年4月14日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、


ヨハネ19:30-37
30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。32 それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。33 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。34 しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。35 それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである。

今日は、しゅろの日曜日、パームサンディですが、いつもイースターの前にあまり触れられていないことを今日は覚えてお話ししたいと思います。今日、読んだ箇所は、イエス様の死の場面です。
イースターはイエス様の復活、よみがえりを祝う日ですが、復活に至るまでは、死んでいなければなりません。死がなければ、よみがえりがないのです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。—ヨハネ15:13

★ 死が示すもの

〇「完了した」イエス様は、十字架の上で完了したと言われた。それは、人類の贖いのための代価は払われたということ。すなわち、あなたの罪のための代価は支払われたということです。また、父なる神からの命を全て成し遂げた。ということです。イエス様の地上の、また人間の身体をとった人生の完成を意味しました。あなたの救いのためにすることは全て終わったというのです。

〇「どうしてわたしをお見捨てになるのですか」マルコ Mark15 イエス様は呪われたものとなった。木にかけられたものは呪われる。と旧約聖書にあります。イエス様は、神であるにも関わらず、神に呪われたものとなられたのです。完全に、父なる神から見放されたのです。

〇「霊を渡された」gave up His spirit – イエス様は、死にご自分をゆだねられました。イエス様は殺されたのでもなく、自殺したのでもない、その命を自分から私たちにプレゼントされたのです。自分の全てを私たちのために、捧げてくれた。神に委ねてくれたのです。

★ イエス様の死の体験とはどんなものだったのだろうと思います。私たちは、イースターを強調するあまりに、イエス様の払ってくださった死の代価の意味を忘れがちではないでしょうか。イエス様は死んですぐに復活したのではなく、葬られ墓に入れられ、三日の後によられました。復活まで沈黙の二日間があったのです。その二日間、イエス様はどうされてたのでしょうか。人々は悲しみ、そして父なる神も悲しんでおられましたことでしょう。

〇究極の孤独-- イエス様は、今まで父なる神、聖霊なる神との交わりとサポートの中、またみ使いたちが仕えている、そんな中で生きておられました。その交わりが断たれるとは、どんな孤独でしょうか。私たちも試練にある時に、誰も私の気持ちを分からない、と孤独を感じるものですが、イエス様は、それ以上の孤独を体験しました。私たちは、例え、クリスチャンでなくても、神様と叫べば、神の助けがあるのです。クリスチャンならなおさらです。

〇低いところまで下った— イエス様は、ハデスにまで下られたというのです。

使徒2:31
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。Seeing what was to come, he spoke of the resurrection of the Messiah, that he was not abandoned to the realm of the dead, nor did his body see decay.

神であるお方であるのに、神を知らず、神に背き敵対した者たちと一緒に、地獄の門まで行ったのです。生前の輝かしい勝利の数々、サタンの誘惑に勝ち、様々な病をいやし、奇跡を行い、そして悪霊を追い出しました。しかし、全く逆の、ご自分が今まで戦っていた力の中に入っていかなければならなかったのです。どんなにか、気持ちの悪い、居心地の悪い経験だったことでしょうか。私には、想像もできないことです。死に従うということは、肉体の死、だけではなく、黄泉の体験、すなわち霊の苦痛も体験するということでした。

〇究極の愛の現れ--- それは究極の謙遜によって

ヨハネ15:13
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。Greater love has no one than this: to lay down one’s life for one’s friends.

イエス様は、これほどにあなたを愛しておられるのです。
死の力と戦って、死ななかったのではなく、死なれたのです。あなたのために、いのちを捧げてくれたのです。あなたが、新しく生きるようになるために。
神であるお方が死んだ。神が死とを経験された。
しかも、罪の刑罰として死なれた。私たちの、神であるイエス様のなんという謙りの愛でしょうか。

〇イエスの死の美しさ

私たちは、生きようともがきます。痛みを感じたら、即座に痛みを取り去ろうとします。死ぬ事を避けるためです。これは、肉体的なことを言っているのではありません。精神的なことをも超えています。「自分を生かす」か、「父に従う」か。
イエス様は、私たちを愛する愛ゆえに。。。自分のいのちを譲られた。。「父よ。彼らをおゆるし下さい」と十字架上で祈られた通り、私たちがまだ罪人出会った時でも、私たちのことを一番大切に思われたいそ

三位一体の神の譲り合い、謙遜と愛の関係を思い出します。イエス様は、その関係の中に私たちを入れるために、ご自分の存在ゆさえもゆずられたのです。

★ 私たちへのメッセージ

これは、深淵な出来事です。
私たちにも、試練が来ます。いつ開かれるのか分からない暗闇が来ます。神がいるのになぜ? と思う。また、神がいるのにどうして苦しまなければならないのか、と思うこともある。

しかし、今日二つのことを覚えたい。

①イエスの死の孤独により、私たちは、自由に神に近づけるようになった。いつでも、神と交わることができる。

②イエスについて行くものもまた、死を経験するものだ。もし、神に従い、試練に合っているなら、死ぬこと/自我に死ぬこと、にも甘んじる覚悟が必要だ。死とは、静であり、一切の動から離れていることであり、完全な神への降伏であり信頼であると言える。

ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。Very truly I tell you, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.

ルカ 9:23, 24
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。Then he said to them all: “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me. 24 For whoever wants to save their life will lose it, but whoever loses their life for me will save it.
#イエス様の死 #イースター #礼拝

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十字架につけられた恥 Crucified Shame

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十字架につけられた恥 Cruc...
2019年4月7日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、


ヨハネ19:1-16
そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたにこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人の罪を認めません。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。9 そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権利があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した後に、もっと大きな罪があるのです。」12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるために彼らに引き渡した。

★ 十字架の道ぞなえ

バプテスマのヨハネは、悔い改めを解きました。メシアの到来に向けて心を備えよと。イエス様の公生涯の教え。神の御国が来ました。罪を赦し、悪霊を追い出し、病気を癒し、人々に愛することを教え神の国の解放を見せられました。しかし、三年のうちにイエス様は十字架にかけられることになりました。
どうしても、罪を認められない、どうしても宗教行事ではなく愛を選びたくない、自分が赦され互いに赦しあうことをしたくない人たちというのが、イエス様を十字架に向かわせました。

★ 恥が私たちの行動を決める 創世記Gen 3

初めの人、エバが蛇に騙されるシーン。「確かにそう言ったのか?」「あなたは死なない」「神のように賢くなることを知らなかったのか」三段階で、エバは、恥の思いを深くさせられた。私たちが行動する時に、強い動機になるのは、愛か恥です。塩狩峠の話しでも、愛によって突き動かされた青年が身を投げて電車を止めました。恥もまた強く私たちを動かし私たちに行動させます。

エバが結局神様の教えに背いたのは、恥を蛇につつかれたらです。確かにそういわれたか、と言われると、自信がなくなる、そこに、死なないよと嘘をいれられ、そして、神様はあなたにだけ教えなかったのではないかと、神様に対する疑いを入れました。エバは、恥の思いでいっばいになり、実をとって食べるようになるのです。
私たちも、恥によって物事を押し出し式に決めたり、自分の行動を左右させてはいないでしょうか。

結局、アダムは、神様と対面したときに、エバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。自分の恥を自分のものとして認め、悔い改めることをしない時に、それを誰かに投影するのです。
新約のイエス様の十字架の前にも、たくさんの人の恥がかかわっていました。人々は、みな恥の思いをイエス様に転嫁したのです。

★ 十字架の周りの人々の恥

〇宗教人たち…祭司や律法学者は、イエス様の新しい愛の教えが赦せなかった。人々がみんなイエス様について行ったのが赦せなかった。今まで、伝統的に律法を守ろうとしてきたが、それがうわべだけの行動であるとイエス様に見抜かれて、腹を立てた。恥は、自分の本当の姿に耐えられないのです。

〇ピラト…ピラト、イエス様に罪がなく、十字架にかけるような罪を認められなかったし、イエス様を十字架にかけたくなくて、なんとか助け舟をだした。が、人々が、あなたはローマ、シーザーにに逆らうのか、と言われたその一言で、恐れた。恥は私たちに恐れを持たせます。裁かれることが怖いからです。ピラトは、その一言で、自分の恥に向き合わずに瞬時に、イエス様を十字架にかけることに決めたのです。

〇群衆…群衆は、今までイエス様にいい影響を受けた人たちもたくさんいたでしょうし、過去三年間、イエス様のうわさをいろいろと聞いてたはずです。群衆心理といいますが、これは、恥の集まりの心理とも言えるのではないでしょうか。現代の世の中では、SNS, メディア、ポリティカル、芸能ゴシップ、などもこれの現れだと思います。みな、自分の身近なことでもないこと、あるいは、本当か嘘かも自分で調べていない、ひいてはそんなに実は気にしてないことをどうしてあそこまでひつこく追いかけるのでしょうか。みんな、誰がが、罰を受けるところを見たいのです。社会的制裁social sanctionを受けるところが見たいのです。そうすれば、すっきりすると思うのです。

〇弟子たち、ペテロ…ペテロは、イエス様を追いかけて行きますが、結局、イエス様を知らないとのろってまで嘘をつきました。それも、恥がさせた行動です。自分がイエス様といつも行動をしていたものだと知れたら、明るみに出たら、人に裁かれるからです。制裁を恐れて嘘をつき、イエス様を裏切りました。

〇私たちは、みな恥の思いを持っています。そして、その恥を隠すために、とっさに行動を選んでしまうのです。自分の身体の外で、恥が罰せられのをみたいと思うのです。

★ 恥が恐れること

明らかにされること。
人に見られること。
裁かれること。

★ 私たちの恥がイエス様を十字架にかけたのです。

イエス様は、全てを体験してくださった。
イエス様は、私たちの罪を背負って、罪のないお方なのに、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。私たちが一番恐れていることを体験してくださいました。

★ 恥が力を失うとき

恥は、Vulnerability とEmpathy で力を失う。

イエスは、素っ裸でうたれた傷を隠すことなく、自分の弱さを隠すことなく十字架に罪人として掛けられて、本来完全無欠、全知全能の神であるのに、死にゆく姿を人々に見せるという究極のVulnerability を示された。
このイエス様は、私たちの罪を赦し天国へ導いてくれる、ご自身を神への全焼のいけにえとして捧げられた大祭司であります。
そして、
へブル書4:15では、
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。For we do not have a high priest who is unable to empathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are—yet he did not sin.

私たちもイエス様のように、自分の弱さに正直になる時に、自分を隠さない時に、恥は力を失います。恥によって物事を決断することはなくなります。
また、私たちを理解してくださる、イエス様に慰めをいただくときに、また信仰の友に一緒に祈ってもらい、共感してもらう時に、恥は力を失います。

★ 招き

私の中に、恥はないだろうか。恥によって行動してはないか。
人に知られたくない部分。
それを人に投影してはいないか。
ゴシップをしてしまわないか。
誰かが裁かれるのを見て喜んでいないか。
その、恥のために十字架につけられたイエス様を信じましょう。イエス様は、あなたの恥を理解できる方であり、あなたを慰めてくださいます。
#イースター #レント #十字架 #恥 #礼拝

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イエス様の祈り Prayer of Jesus

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イエス様の祈り Prayer ...
2019年3月31日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は


ヨハネ17章20--26
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
21 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

イエス様の祈り、この章では、イエス様の十字架にかかられる前の祈りが書かれていますが、まず初めに自分のための祈り、続いて、弟子たちのための祈り、そして、これから弟子たちを通して信者となる人たちのための祈りと続きます。今日は、最後のこれから信じる者たちのための祈り、すなわち、今日の私たちの祈りから学んでいきたいと思います。

★ 父と私が一つであるように
一つとなるという祈りは、神のデザインが私たち信ずる者たちに分与されるようにということ。

“わたしを見た者は父を見たのです” ヨハネ14:9

★ 三位一体に見られるワンネス…個別の人格、個別の存在である三者が一つである状態です。これが、私たちの神であり、私たちのリーダーシップなのです。個別の存在が一つであるには、相当の譲りあいが必要ですね。二人よりも三人の方が難しいのは、みなさん、特に女子はよくわかると思います。

① 謙遜において…互いに相手を尊敬して(ピリピ2)、栄光を互いに譲り合っている姿

② 愛において…愛が無ければ、私たちは互いに興味を持ちません。相手を知りたいと思うから、歩みよりがあるのです。知ろうとすることが愛の始まりです。

③ 喜びにおいて…あなたがわたしにいるように。。。ヨハネ六章に祈りがきかれたとき、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだ、と書いている箇所がありますね。一人で喜ぶより、誰かと喜んだ方が、喜びが倍増しますね。「ねーねー聞いて聞いて-」と誰かに言いたくなるのも、喜びがあふれるためです。また互いの繋がりが深くなる。

④ 苦しみにおいて…イエス様は、この点において、身をもって体現してくださいました。苦しみを分かち合う時に、私たちは慰められます。イエス様は、ご自分が私たちの苦しみを体験してくださることで私たちに完全に共感できるお方であり、私たちの重荷を軽くしてくださるのです。また、旧約聖書でも、神は民の苦しみ、嘆きを聞いてモーセを遣わしましたし、私たちの罪によって悲しまれたりしました。私たちと、一つになられたいからこそ、です。

★ 父が私を愛されたように、彼らをも愛されたこと v23

ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.

神は、ご自身のイエス様への愛を私たちにも広げてくださった。三位一体の三者、そして弟子たち、そして弟子たちを通して信じる者たち、そして、その愛が知られるようにと愛を広げ、全ての人を招いてくださる愛。
Inclusion

★ 愛が知られるように

〇この世が知るため
その父が子を愛した愛で、私たちをも愛してくれているということが、この世に知られるために、一つにしてください。とイエス様は祈っている。
真の伝道は、私たちが神を愛し、神に愛され、互いに愛しあい、そして、周りの人を招き入れ、周りの人たちをその愛の交わりの中に含んでいくことです。
知識を伝えることではありません。

★互いにおること…

◎信仰によって…信仰によって、私たちは天の国籍を持つ。すなわち、信仰によってイエスのうちに隠される、信仰によってキリストとともに天の位につく、信仰によって私たちはキリストの義と一つにされ、キリストの業ゆえに、義とみなされる。これは、不思議なことです。

◎愛によって…誰かを好きになったら。。。いつもその人が心の中にいますよね。デートし始めのころ、その人のことがいつも気になって、電話したりテキストしたり。結婚したら、もっと一つになりますね。よく、自分の伴侶に危険が降りかかる時、分かるというものですし、離れていても不慮の事故で命がなくなるようなことがあれば、相手は何かわかると言います。私も、エリックに驚かれるのは、なんで僕がスパゲティ食べたいってわかったのー? なんて、いう夕食に驚かれることが多々あります。愛によって、私たちは互いにおることができるのです。

★ 先週の最後の晩餐のお話し、聖餐式を思い出しますね。今日も聖餐に預かりましょう




#イエス様の祈り #イースター #レント #礼拝

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最後の晩餐 The Last Supper

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最後の晩餐 The Last ...
2019年3月24日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は


ルカ22:7-22
さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

★大切な最後の晩餐の場所

 イエス様は命を狙われている身ですから、安全で、落ち着いて最後の食事ができるところが必要でした。
V7-13 イエス様は、預言的に、ロバの子を見つけた話しがまた出てきますが、そのように、あそこにこんな人がいるから、こう言いなさいと。。。言われた通りに落ち着いて最後に祭の食事ができるところが見つかった。
この箇所からも、私たちに励ましを与えてくださいますね。私たちが神を信頼して、神の仕事をするならば、必ず、必要なことは備えられる。たとえ、イエス様のように命を狙われていても、いろんな苦労があったとしても、神は、ご自身がされようとしていること、神の愛による御心のために、私たちに導きを持っておられる。

★最後の晩餐?

旧約の過ぎ越しの祭の食事は、今後必要なくなるということで、イエス様が十字架にかかられて復活される前に持った過ぎ越しの食事が文字通り最後になるということ。

◎過ぎ越しの祭とは?

旧約聖書あっての新約聖書
 イスラエルの祭、宗教儀式は全てやがてこられるメシア、イエス様を指している。

過ぎ越しの意味
イスラエルの民は、エジプトで奴隷でした。有名なモーセが出てくるお話しですね。エジプトからの脱出、解放の前に、かたくななパロと奇跡合戦のようになっていましたが、最後のしるしである全ての初子が殺されるということになりました。これには、パロも困ってしまったわけですが、神はイスラエル人のためには、かもいに子羊の血を塗ったものは免れる、という方法を与えました。かもいに子羊の血をぬったものの家は、免れて、みな救われたのです。その後、神は紅海を割ってイスラエルの民を救ったのです。
それから、イスラエルの民は、これを覚えて、自分たちがどのようにして奴隷から解放され、神の奇跡によって脱出できたのかを子々孫々に過ぎ越しの祭を通して、語り継げたのです。
過ぎ越しの祭では、子羊の肉や、種無しパンや苦菜という、その時の出来事、つらさなどをあらわす食べ物を食べて忘れないようにしました。

◎イエスを指す

 ユダヤの祭は全てイエス・キリストを指し示しますが、これも、私たちを罪の奴隷の生活から救い出してくれるイエス様という意味が込められています。すべての祭は、やがて来られる救い主を期待しながら持つものです。

◎イエス様は、文字通り、最後の過ぎ越しの食事を一番愛する弟子たちとしたのです。

v15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」And he said to them, “I have eagerly desired to eat this Passover with you before I suffer. 16 For I tell you, I will not eat it again until it finds fulfillment in the kingdom of God.”

イエス様が十字架にかかる前ですから、もう十字架にかかられてからは二度と誰も過ぎ越しの食事をする必要がなくなります。
本物の過越しが来たのですから。出エジプトで起きたことの本物が来るのです。もう、誰も地獄に行くことがないように、その道から救われるようにイエス様が死なれたのです。

★パンとぶどう酒

V19-20 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。And he took bread, gave thanks and broke it, and gave it to them, saying, “This is my body given for you; do this in remembrance of me.”20 In the same way, after the supper he took the cup, saying, “This cup is the new covenant in my blood, which is poured out for you.

イエス様は、過越しの祭で、新しいことを言われます。これからは、私を覚えて、これをしなさい。と。エジプトではなくて、またメシアを待ち望むんではなくて、わたしを覚えて、これをしなさいと。

このパンは、わたしの身体です。罪のために、割かれたからだです。そして、この体は、それを食べる一人ひとりのためのものです。
この血は、あなたがたのために流された契約の血です。約束

皆さん、覚えていますか、エジプトで初子が救われたのは、動物の死によりました。動物が死んで、その血でかもいを覆ったものが救われたのです。その血の内側にいるものは救われたのです。

★過越しの食事・イエス様は共同体のもの
The feast was not only for the individual but communal.

この食事というのは、食べ物を口に入れ、自分の体の一部になることです。ちょうど、私たちが信じることもそうです。信じていることは、私の身体、私自身の一部となります。そして、それは、行動や言動にも現れるほどに自分と一つになります。
イエス様を食べる、血を飲むということは、そういうことです。
また、これは、共同体のものでもあります。共同体が一つになるためです。
同じ釜の飯を食う、とか日本でもいいますが、時間を共に過ごし、また辛苦を共にすることで一体感はまし加わり、強いきずなができるものです。
いわば、同じイエス様を食べたものとして、一つになることができるのです。

●イエス様は、愛する者たちに、よく覚えておくように。これが最後の祭だよ。これからは、律法ではなく、私を受け入れるんだよ。と、強いメッセージを弟子たちに、食べて飲むという実体験をもって教えました。

★私たちにとっては、どんな意味があるでしょうか。
食べること、イエス様を受け入れる。み言葉を受け入れる。
飲むこと、契約、約束だという。。。約束を信じる。

自分の力でもがくことからの解放
パフォーマンスからの解放
宗教や儀式で神につながるのでなく、個人的にイエス様と親しく繋がる

★イエス様をいただきましょう。聖餐式



#イースター #レント #最後の晩餐 #礼拝

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レント自分を吟味するLent -- Examine yourself

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礼拝後、季節外れのせいかやすか... 礼拝後、季節外れのせいかやすかったパンプキンパイを切りました。同級生のこの二人は、まるで本当の兄弟姉妹のようです。。。 大きい子たちは、ゲーム、はいは... 大きい子たちは、ゲーム、はいはいよちよちさんたちは、ブロックで遊ぶか、青年のお兄さんに肩車を何回もしてもらって遊んでいました。いつも、二、三時間礼拝後遊んでいますーー
2019年3月10日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、


先週はアッシュウェンズディがあり、頭に灰で十字架を書いた人をたくさん見ました。レントが始まりました。レントは、キリストの苦しみと十字架そして、復活のイースターを前に、自らを省みて振り返り、罪に気が付いたり、悔い改めたりするという時期です。

〇コリント人たちの傾向

賜物を誇る。高慢さがあった。罪を継続的に犯して何の後悔もない人たちがいた。それどころか、痛いところを突かれると、逆にパウロの使途職の正当性を疑ってきた。またパウロの説教の能力も疑った。という文脈。

この背景に心をとめておいてください。コリントの人たちは、自分の罪をパウロに指摘されたことが耐えられなかった。ですから、その恥を攻撃に変えた。自分の恥を自分のものとして認識できない場合は、往々にしてこのような行動にでます。私たちも多かれ少なかれあります。自分の恥をどう隠すか、責任転嫁するかが自動的に人がすることですね。アダムとエバのように。。。。

Ⅱコリント13:3-5

こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか—あなたがたがそれに不適格であれば別です。

〇レント、省みることの意味

身を慎み、過ごす時期ですが、その目的は、自分の十字架の重さを知ることです。そして、キリストの十字架の尊さを知り、キリストのくびきの軽さに感動することです。

①  イザヤIsaiah 51:1
義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。“Listen to Me, you who follow after righteousness, You who seek the Lord: Look to the rock from which you were hewn, And to the hole of the pit from which you were dug.
惰性や習慣ではなく、神に新しく出会い、神の義を求めるもの、神を求めるものは、自分の出てきた所、どこから救われたのかを見なさいと言われます。

②  黙示Rev. 2:4
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。Nevertheless I have this against you, that you have left your first love.
次の節では、だから「悔い改めなさい」と書いてあります。私たちは、悔い改める時に、いつでも初めのあの愛に帰ることができるのです。

私のインターン先には、いつも新しい入居者が来、また外部からチャペルのために証しをしに来てくれます。絶えず、初めの愛を思い出させてくれます。自分の証しを話す時、誰かの証しを聞くときにとっても励まされます。それは、イエス様の愛が心からまた湧き上がってくるからです。
神の愛がはじめにあったから、私たちはそれを信じた。。信じることで救われたのです。
暗闇の中、どうしようもなかった時、助けがなかった時、助けが見いだせた時、イエス様が分かったとき、イエス様の十字架の意味が分かったとき、何回思い出しても、私に新しく元気を与えてくれます。

〇省みれない理由 

①  恥…自分の過去を振り返れない時、そこには、恥の問題があります。もうあれは終わったことだから。過去のことを思い出して嫌な気持ちを再体験したくない。暗い気持ちになりたくない。何て思う方も多いです。私も、クリスチャン生活が浅い時はそうでした。けれども、何回もその思い出に空気を入れるのです。恥は、自分から自分の感情をも隠そうとし、癒しを遅らせるのです。何回も訪れて、何回もイエス様がここに来てくださったということを確認するところに癒しがあり、恥の思いが小さくなります。恥の思いが小さくなれば、自分から、また人から隠れなくてもよくなり、また、それも証しとなるのです。時々、本当につらかった思いや、自分の黒歴史について全く証しできない方もいますが、もしかしたら、恥にふたをしてしまっているのかも知れませんね。

 ② 宗教
過去を振り返り、自分を省みれない理由の一つに宗教の霊があります。または、み言葉の未熟な適用と言ってもいいかもしれません。聖書では、後ろのものを振り切って前を向いて、何て言葉もあり、私はもうイエス様の十字架と一緒に死んだのだから、ポジティブしかない、なんて思ったり、または、イエス様はどんな罪だって赦してくれる、だから、今日の罪も赦されるから向き合わなくてもいい。というような間違った適用もすることがあるでしょう。

これは、教会も聖書の真理の提供の仕方、いや、弟子訓練として人と人として向き合う中でしっかり教えないといけないのだと思います。日曜礼拝で聞くだけでは間違って聞いてしまうこともありますから。やはり、一対一の弟子訓練が大切です。
宗教は、早く良くなった。自分は乗り越えた。を強調させるかも知れません。が、しかし、それは本当でしょうか。私たちは、日々罪に対して弱いものです。また、同じ過ちを繰り返し、同じ恐れに縛られ、同じ恥をもつものです。

〇キリストの弱さとは

謙遜さ。キリストには能力も権力も知恵もすべてに勝てるものがあった。が、しかし、あえて弱さをとった。そこにこそ、神の愛が現わされたのです。キリストは、弱いから強いのです。世界で一番強いのはイエス様の弱さです。

〇あなたの弱さ

 ① 肉の弱さ、精神の弱さ、過去のトラウマ、心の傷、過ち、罪に対する脆弱性
   ---- いつ気づくか、人との関わりの中で。コリントの人たちは注意されて気がつくチャンスをもらいましたね。
   ----- 聖書の言葉を通して。聖書は、従った見たときに、自分の弱さを実感させられます。けれども、それと同時に神の力を経験させてもらえます。

②  弱さの力
   キリストの愛は、雄弁eloquenceさや能力を通して伝わるのではなく、むしろ弱さを通して伝わる。このコリント人たちがまさについていることですが、この世の霊に私たちは気を付けましょう。この世は、見た目が強いほど良いと思われるのです。ですから、私のように、言葉が遅い、もじもじしていると、馬鹿に思われたり、能力がない、知性がないと思われるのです。
しかし、神の福音や、神の愛というものは、能力や雄弁さを通しては伝わらないことを覚えていてください。
弱さは、世の人の心をつかんだり、効率よく人を集めないかも知れません、しかし、不思議な方法で神の愛が伝わるのです。これは、人の業ではなく神の業だからです。私たちの側ですることがあったら、祈りと愛することです。

ですから、パウロは、誇るなら弱さを大いに誇りましょうと言っているのです。

例えば、私の母教会の牧師は、議論には勝たない方が良いと私に教えました。私は、若いクリスチャンのころ、どんなノンクリスチャンからの質問にも立ち向かえるように、たまに意地悪なことを言う方もいますから、何とかリサーチして備えて、相手を納得させようとしていました。しかし、ある日、先生は、勝たない方がええというのです。。。。その時はよく理解できませんでしたが、いろいろと自分で経験をしてみて分かるようになりました。
議論に勝つことよりも、愛する時に、神の愛が伝わる。私が強くて弁がたったとしても、相手には愛が伝わっていないことが後でよく分かるようになりました。痛い経験もしました。失敗もたくさんしました。しかし、私が振り返る時に、私が弱い時にこそ、神様が勝利されたのです。弱いまま、至らないままで、一生懸命に愛そうとし、相手に寄り添おうとするときに、愛が伝わったのです。

〇キリストの弱さとあなたの弱さが一つになる時、力がある。

みなさん、ですから、弱いことは、悪いことではないのです。ただ、神の前にも人の前にも自分の弱さを隠したり、過剰に肉の鎧で守る必要はないのです。

〇信仰によって …信仰に立っているかどうか。。。

私たちが、どんなところから、どんな性質から救われてきたかを思いめぐらし、感謝し、常に証しを持ち、キリストの救いと愛に感謝する時、私たちの信仰がまた強められるのです。
神の愛に包まれて守られるのです。いつも、神の愛に感動し、その愛を信じるのです。

信仰によってのみ、私はキリストと一つです。

この作業は、キリストと一つになる、繋がることでもある。ここから、聖霊の実が出てくる。ここから、キリストの香りがする。あなたの中に、キリストが強くなればなるほど、香る。キリストが強くなるということは、あなたがますます弱くなるということ。
この土の器に私たちは宝を入れているのです。

このイースターまでのレントの時期に、自分を見直すこと、神の愛に浸ること、キリストの十字架の意味をかみしめることをお勧めします。

#2コリント #イースター #レント #礼拝

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ハンナの祈り

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新しく加わる方もいれば、帰国さ... 新しく加わる方もいれば、帰国されるかたも。。。。そのたびに寂しいものです。空港のスタバにて、お見送りで最後のコーヒーを楽しみました。 エリックも、かいがいしく荷物を... エリックも、かいがいしく荷物を運んだりチェックインのお手伝いをして。。。。。セキュリティへ。。。日本でも、神様と一緒に。。。。幸せでいてくれよって親心。。。
2019年3月3日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


有名な宣教師、ハドソン・テーラーのことばに、「祈りによってのみ人を動かすことを学べ」とあります。私は、この言葉を聖書学校の寮の壁に張り、聖書に挟み、祈ることを学びました。今日は、祈りで人生が変わり、またこの人の祈りで国が変わった人のお話しから学びたいと思います。

★聖書の歴史的背景は、イスラエルが神を王とする神政政治theocracyから人を王とする君主制monarchyに移行する前でした。ここに出てくる最後の士師である、サムエルは、当時のイスラエルには無くてはならない、神の預言者でした。イスラエルの初代国王サウルに油を注ぎ、またそのサウルから王位を外し、ダビデを選び。。。という重要な役割をにないました。この歴史的重要人物、サムエルは、ある一人の女性の苦悩と、祈りの中から生まれたのでした。

★ハンナの試練と行き詰まり

1サムエル1:2-6
2 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。3 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。4 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。5 しかしハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。6 彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。

ハンナは不妊を患っていました。彼女は第一夫人ですから、彼女に子供ができないので2人目の妻をもらったのでしょう。日本でも、昔子供が生まれないと離婚の原因になりましたから、当時、大変彼女は後ろめたい気持ちをもちながら生きていたはずです。
彼女は、夫に愛されていのですが、それがまたベニンナの意地悪の原因となります。
お祭りの時には、子供たちの分もいけにえのわけまえを頭数で渡しますが、エルカナは子供のいない愛するハンナに気を使って、普通よりもたくさん上げました。

★神でなければ満たせない場所

V7-8 7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。8 それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」

落ち込んで泣いているハンナに対して、夫エルカナは、私はあなたを愛している。私の愛では十分ではないのか?
私たち、試練に合う時に、また心の中に穴が開いているような気がする時、行き詰まる時、人のあたたかさ、愛する者たちの親切は確かに心に響きますし、慰められます。
しかし、ハンナにとっては、それだけでは十分ではありませんでした。孤独を感じていました。夫がどんなに愛してくれても、愛する夫に子供を産むことができない。ということ、また自分の身体が子供を宿すことができないという、女性ならではの苦しみ。自分は欠陥品なのか。。。という思い。呪われているのだろうかという思い。自分のコントロールの範囲を出た苦しみ。誰にも理解されない、という行き詰まりの中にいました。

私たちの心には、神にしか解決できないものがあります。神にしか埋められない場所があり、神にしか慰めることのできない場所があります。

★ハンナの二重の決断と捧げもの

ハンナは、この心の穴を神様に解決していただくために、宮に行きました。これで解決しなければ、と自分の全存在をかけての祈りでした。いわば、神に自分の人生をかけて、今日神に解決していただかなければ、という気持ちで出向いたのでした。

◎注ぎだす

15 ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。
感情を注ぎだした 精神的な全てを神の前に出し尽くしていた、自発的な捧げものとして。
私たちの感情は、私たちの願いを中心にして反応している。怒り、苛立ち、悲しみ、喜び、全て願いに結びついている。しかし、ハンナはどうしても願いと喜びの部分の結びつきが薄かった。いくら夫に大切にされても、喜びが無かった。私たちの感情は神様からのメッセンジャーです。

〇注ぎだすこと…
注ぎのささげ物に用いられる表現。精神的なささげ物。イエス様も十字架でご自分を捧げられるときに、心を注ぎだしてゲッセマネで祈られた。そこには、主よ願わくば、この杯を私から取り除いてください、と祈ったほどに、苦しみの祈りでした。ですが、そんな思いも、従いたくない思いも全てを注ぎだして祈りました。ですから、十字架の上で流された血潮に意味があった。イエス様の流された血も、注ぎだされたものであった。精神的な捧げものであった。

旧約聖書では、この注ぎの捧げものは、全焼のいけにえと共に捧げられた。全焼いけにえは、律法で定められた、罪を赦されるために必ず捧げないといけないものでしたが、穀物の捧げもの(仕える)、和解のささげもの(赦された喜びを分かち合う)、注ぎの捧げもの(強い酒やぶどう酒、主を喜ばせる)は、任意でした。自分で捧げたければ、自発的にささげるものでありした。

〇ハンナの祈りは、自分自身を全て神にあけわたして焼くも煮るもお任せしますという態度で、全てを捧げました。そして、自分の心を注ぎだしました。ちょうど、旧約聖書の捧げもののように。。。
今までため込んでいた、発酵したような感情を全てその上に注ぎだしたのです。神は、これを喜ばれたでしょう。精神的な捧げものとなりました。
自分の感情なんて、と皆さん思いませんか。しかし、イエス様のゲッセマネの祈りも、ハンナの祈りもすべての感情を注ぎだしたとき、神は喜んでその祈りをお受け取りになられました。私たちは、感情を注ぎださなければ、神からの良いものを受け取るスペースが心にできません。神様は、それを待っておられるのではないでしょうか。

◎祈りの結果も神様に捧げることに

V10-11 10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。11 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
ハンナは、自分の人生と全人格、そして精神のすべてをかけて神のところにやってきました。そして、全てを捧げ、祈りの結果も全て神様に捧げることに決めたのです。

★変革の原則

V17-18 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。

ハンナは、つらかった過去を清算し、自分の願いを注ぎだし、将来をも神に捧げることができました。
ハンナの顔が変わっていた。。。

主に自分が変えられるときには、必ず、自分のすべてを明け渡さなければならない。そして、神にしか満たしてもらえない場所に神様に満ちていただくとき、あなたは完全に変わる。
人間にはできないことだ。

人が救われるときもそうだ。罪を悔い改める時、神から心の癒しを受け取る時もそうだ。

★祈りの確証を得る

V19-20 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。20 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

希望と確証: へブル11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
これには、献身がいる。自分自身を祈りの結果ごと捧げる。感情を全て明け渡すこと。

全焼のいけにえのとともに注ぎの捧げものがされたように、まず献身、自分の身を全て過去も未来も捧げます、神様にお任せしますという気持ちが一番。そして、心の全ての願いにまつわる感情を神様に知っていただくこと。ここから、真の希望が出てくる。
希望があるなら、大丈夫、それは、もう与えられたと信じることが信仰だと、へブル書に書いてあります。ハンナは、そのようにしたのです。そして、本当に男の子が与えられ、その子が時代を担う大切な役割をするリーダーとなりました。

★ハンナの名前の意味は、「恵み、好意、お気に入り」ハンナは、夫の好意も受け、その苦しみによって、国を変えるサムエルという神のご計画に預かるという好意にも預かったのです。彼女の苦しみも、神が彼女に意地悪をしたくて与えられたのではなく、その深いご計画の中で、彼女を恵むためでありました。ですから、苦しみさえも恵みだったのです。苦しみの中にいるときは、このようなことは、分かりえませんでした。ただ、全ての事を分かるようにしたのは、祈りです。彼女の真剣な祈りが、すべてをつなげたのです。

あなたは、今苦しみの中にありますか、悩みがありますか、それは、神様があなたを恵まれようとしているサインではないでしょうか。神様に体当たりで、自分を捧げ、心を注ぎだして、お祈りしようではありませんか。神様は、きっとあなたの心を人が満たせないところを満たし、あなたを変え、そして、あなたの人生と周りの人の人生に打ち破りを与えることをしてくださいます。
#1サムエル記 #礼拝 #祈り

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世の光、地の塩 You are the light of the world, the salt of the earth.

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ランチタイムの様子。森本さんに... ランチタイムの様子。森本さんには、みんなで食べる最後のランチでした。 いつもの通り、帰った人もいるけ... いつもの通り、帰った人もいるけど、記念撮影。みんなで、思い出を書いたり、メッセージを書いたアルバムを送りました。日本でも、たくさんの人の祝福となってくださいね。
2019年2月24日日曜日礼拝ショートメッセージ音声は、

マタイ5:11-16
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

迫害されるとき喜びなさい、というイエス様のお言葉だった。これから、日本に行く森本さんですが、アメリカにいるのと随分違うことを感じると思います。また私たちも帰国して家族と会えば、随分文化的な違いも感じると思います。
個人の信仰よりも、みんなと同じことをするのが正しいとされるのが日本の文化です。また、日本人の罪の捉え方は、みんながしていたら罪ではないという感覚があります。日本人は倫理観が高い民族で、昔から嘘をつくこと、また人のものを盗むことは悪いということを認識していました。が、コミュニティのみんながしていたら、いいかーと思うのです。赤信号みんなで渡れば怖くない、みたいな。また、旅の恥はかき捨て、というように、自分のコミュニティを離れたら、罪の意識が下がるという傾向もあります。
そのような文化の中で、クリスチャンというマイノリティとしてコミュニティの中に入っていくのです。

その文脈の中で、イエス様は、あなたは世の光です、地の塩です。とおっしゃいました。そして、光を隠さないように、塩気をなくさないように。。。と。

★ あなたは、すでに世の光であり、地の塩である。

★ 光
世の光---- イエス様の事。ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光。
イエス様を信じる私たちもまた、世の光だというのです。あなたと、イエス様は、一つなのです。

◎明かり燭台の上に、マスの下には置かない
 クリスチャンの生き方の選択、意志、Intentionality をしっかり持つようにということ。あなたは、世の光であると自覚し、世を照らすのだ、という自覚が必要。

◎この世は暗い海を航海するようなものです、灯台の光が無ければ、事故にあってしまうし、位置が分からない。光は、私たちに安心をもたらします。あなたも、誰かの人生の道しるべとなるように召されました。

★塩

◎大変貴重なものであった。当時は、お金、金や銀の代わりにも流通するくらい、貴重なものでした。あなたは、すでに、貴重な存在であることを忘れないで

◎日本でも漬物を食べますが、ハムやソーセージも塩漬けにします。腐ることから守るからです。あなたが、その町、職場にいるから、その腐敗を防いでいるのです。

◎味付けをする。ハーモニーさんも塩コショウだけで、とても美味しいスープを作られますね。ああ、塩だけでいいんだなーと前回のポットラックで思ったものです。
あんこだって、砂糖をたくさん使いますが、美味しいあんこを作るには、塩加減です。
あなたは、地の塩、この世に美味しい味をつける役目をしています。ですから、塩気をなくしては、役に立たないよというのです。
塩気とは何でしょうか。それは、キリストの似姿です。

★クライストライクネス
私たちは、キリストと向き合い、キリストについて行くときに、キリストの光を受けてそれを反射しながら輝くのです。また、キリストについて行くことで、塩気を保つことができるのです。

これから、日本に旅立つ森本さんのために祈りましょう。

#マタイ #礼拝

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あなたを強める三つの養い ―エリヤを通して学ぶー

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ツイッターかなー。こんな写真を... ツイッターかなー。こんな写真を見つけました。なんだか、人間みたいな表情ですねー。教会のちびっこたちも時々こんな顔になりますよ。
2019年2月3日日曜日バイリンガル礼拝


聖書箇所1列王記19:1-18

1列王記19章1-4
1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

今日の箇所は、預言者エリヤがバアルの神とバアルの預言者たちと直接対決し、大勝利をした直後のできごとでした。聖書を読んで新しい方のために。。。 エリヤは、450人のバアルの預言者たちを相手に、二頭の雄牛を用意し、互いの神に祈り神自身にいけにえに火を付けてもらおうというものだった。エリヤは、自分のいけにえに水をまき火がつきにくいようにまでしました。そして、バアルの預言者たちは、祭壇の周りを踊りまわったり、身体を傷つけたりして祈りましたが、彼らの祭壇には何もおきませんでした。一方エリヤの方のいけにえには、真の神によって火が付きました。民はみな真の神をあがめました。

このような大勝利の後、アハブ王の妻イゼベルによる殺害予告をされるのです。そして、あのように勇敢に何者をも恐れず、真の神に信頼していたエリヤは、恐れて逃げるのです。
エリヤは、立派に大事業を終えたばかりでした。皆さん、私たちは、今日このお話を通して学びたいと思います。
私たちは、アンドロイドでも機械でもなく、大いなる真の神を信じているとはいえ、生身の人間なのです。大きなプロジェクトを終えた後はどっとつかれるのです。まして、神の霊によって用いられ、霊的な働きをした後は、なおさら、どっと疲れがでるものです。私も、日曜日の夜は、どっと疲れて夕食をつくる気にならないものです。皆さん方も、神様を信じている神の勇士たちです。神様にあって事業を成した後、また継続的に長く神様のために働くには、どのように養われ、回復していったらいいのでしょうか。聖書に従って、三つの点についてみて生きたいと思います。

★人間のエナジーゲージ

 1テサロニケ5:23
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
Now may the God of peace Himself sanctify you completely; and may your whole spirit, soul, and body be preserved blameless at the coming of our Lord Jesus Christ.

車のガソリンタンクのゲージのようなものを想像して下さい。私たちには、肉体、心/感情、霊の三つのゲージを持っているとしましょう。全てがFull に傾いていなければ、人間という存在は、壊れてしまうのです。走り続けることは出来ません。

① 肉体の養い Nurture Your body

1列王記19章5-8
5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。
6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。
8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

 ★休息と滋養は、私たちの元気の源

エリヤがイザベルを恐れて逃げたとき、神様は、エリヤを責めませんでした。どうして信仰が無いのかとも言われませんでした。逃げるなとも言われませんでした。神は、天使を送って、エリヤに食事をさせました。そして、エリヤはまた眠り、また起き、天使に食べさせてもらいました。エリヤを選んで用いた神様は、エリヤのことを誰よりもよくご存知でした。エリヤが心身ともに疲れきっていたことを知っていました。また、その余裕のなさから、イザベルを恐れたことも分かっていました。そして、まだエリヤのする仕事があることも知っていました。それゆえ、彼の肉体をまず休ませ、食べさせたのです。そういえば、エリヤは、バアルの神との直接対決のとき、寝ずの対決だったのではないでしょうか。バアルの預言者たちは、夜通し踊り身体を傷つけながら大声で祈っていましたし、それをエリヤは見ていました。
Also, body keeps score
私たちも、体が資本です。体がなければ、私たちは、神のために働くことはできません。いくら、強い心を持っていても、体がなければ、その表現のしようがありません。聖書は、「私たちの身体は、聖霊の宮」であると言っています。
もし体、精神が疲れがちであれば、食生活と睡眠を振り返ってみてはいかがでしょうか。また、体が疲れているとき、判断力が鈍っているのかもしれません。元気なときにはしないような決断や、発言をしてしまうものです。
旅はまだ遠い…神は私たちが0%の時でも私たちのために先を見てちゃんと養ってくださる。まさに、新約が言っているように着る物食べる物のことをなぜ心配するのか? 野に咲く花を見よ、鳥たちを見よ、働かないのに神に食べさせてもらい、あんなにきれいに着飾らせてもらっていると。。。。

②  たましいの養い Nurturing Soul

1列王記19章9-10
9 彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は、「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられた。
10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らはいのちを取ろうとねらっています。」

★心の傷を吐露するエリヤ これが彼の隠れた問題であり、彼を徹底的に疲れさせ恐れさせた原因であった。

エリヤは、「何をしているのか?」と、神に話しかけられ、言いました。「私は熱心に神に仕えてきた」「イスラエルの民は、預言者を剣で殺し、私だけが残りました。今は、私まで殺されそうです。」と、苦々しさいっぱいです。エリヤは、大勝利を取ったのではなかったでしょうか。確かに、イスラエルの民は、真の神をないがしろにし、預言者を殺し、祭壇を壊したかも知れません。しかし、かの大対決で、真の神の勝利により、民は、主をあがめたのではなかったのでしょうか??

エリヤには、トラウマ、心の傷がありました。自分の友達預言者たちがどんどん殺され、自分の一所懸命の働きが本当にしんどく感じ、孤独感を持っていたのです。神様がかえりみてくれるかどうか分からないほど、孤独感に苛まれていたのです。エリヤはトラウマから回復する間もなく次々と神の働きに携わったて疲れてしまったのです。

これが、エリヤのうつ状態の隠れた原因です。
私たちは、心で信じているとおりに自分の人生を持って行きます。エリヤは、この思いを引きずっていたために、逃げ出し、引っ込み、もう自分なんていっそのこと殺して欲しいと言いだします。あんなに大成功を収めた人が、です。エリヤは、神様に対して、苦々しい気持ちがあったのです。「どうして?」と言う思い。「この仕事は大変すぎる」と言う思い。神が付いていれば、百人力以上であるにもかかわらず、孤独感、自分で全てを背負わなければいけない気持ちになりました。これは、神様に対しての裁きを持っている人が陥り易い姿です。

●感情の癒しは、共感、エンパシーで癒される。聞いてもらった。分かってもらった。が大事。神は、あえてエリヤに心のうちを話させました。私たちのたましいの癒しは、ここから来ます。人に話すのでもない、神に知ってもらうときに、私たちのたましいは、満足を得、そして、神からの癒しを受け取ることが出来ます。

今日皆さんにお勧めします。辛いとき、しんどいとき、後ろ向きになるとき、あなたのたましいに癒しが必要です。養いが必要です。ぜひ、神様に心のうちを全部、感情を含めて注ぎだしてください。神は、必ず癒しをもたらしてくださいます。

③ 霊の養い Nurturing Spirit

1列王記19章11-13, 18
11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。
13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかかめず、バアルに口づけしなかった者である。」

★霊を養うには Nurturing your spirit
神の声を慕い求めること、神の声を聞くこと、神の約束を受け取ること

もう一つ、神様のあって私たちに必要な養いというのは、霊の養いです。霊の養いについては、あまり語られてこなかったのかもしれません。けれども、これが一番大切なことです。どんなに有能になっても、物事が上手にできるようになっても、霊的に養われ、満足していなければ、人は迷ってしまうのです。私たちの霊を養うには、ただ一つ、神の声を聞くことです。
11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

●今まで、力ある神の業をしていたエリヤは、この力強い、地震、風、岩々を砕く激しさの中にも、火の中にも、主を探しましたが、見つかりませんでした。
エリヤは、力と動の源である主を、静けさの中に見出すことを学んだのです。
エリヤは、かすかな小さい声を聞くことになります。
その声は、耳をすまさないと聞こえません。
耳をすますことを私たちが知るならば、私たちは怖いもの知らずです。

神様を慕い求めましょう。あなたがその目と耳でとらまえるまで。主は、探すものに見つけられます。愛する者を愛されます。

そして、彼はまた心のうちの傷を口にします。私たちは、たましいのレベルの傷とまた更に深い霊的な傷を取り扱われる必要があります。彼にとって、この傷の癒しは、完成します。
主は、また、彼を責めることもなく、とがめることもなく、諭すこともなく、彼の心のうちを聞き、彼を受け入れておられます。

そして、神は、なすべきことを語られ、約束をエリヤにされます。
バアルにひざをかがめない7000人を取ってあると。なんという励ましでしょうか。エリヤは、孤独などではないのです。

みなさん、神の声に耳を傾けましょう。それがあなたの霊を養う方法です。また約束をもらうまで、ひつこく神様に耳を傾け続けようではありませんか。私たちが神の約束を受け取るなら、これ以上強いことはありません。
主は、一度も、エリヤを見捨てたことがなかったのではないでしょうか。しかし、エリヤの側で、勝手に孤独に感じ、もう見捨てられた、死ぬしかないと思ったのではないでしようか。
主によって強められましょう。

体、たましい、霊全てにおいて。この三つの分野がいつも健康で、主によって養われている人は、強いのです。


★ゲージのバランスチェック  調整
  朝起きて、何があなたを引っ張っているでしょうか。
  体でしょぅか。 ああ、頭が痛い。足が痛い。だから今日はあれが出来ない、これが出来ない。。。。  体があなたを引っ張って一日を始めます。
  心/ 感情? ああ、今日も上司に会いたくない。仕事いやだなぁ。。。起きるなり、いやな人の顔が浮かぶ。  感情があなたを引っ張り、一日を支配します。
 霊? 朝起きて、ハレルヤ! 神様に感謝感謝。賛美の歌が湧き上がる。何が起きても揺るがない一日になります。
一日が人生に発展します。私たちは、何に引っ張られて生きているのでしようか。
理想的なのは、霊、心/感情そして体の順番です。   大きくの人は、心・感情が一番、次に体、そして霊が最後に来ています。このバランスでは、エリヤのように疲れきり、死んでしまいたくなってしまうのです。。。
#1列王記 #礼拝

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