10月のお誕生日祝い、三人でふーー。みんな大人なので、すぐにろうそくは消えました。。。お誕生日おめでとうございますーーー
2017年10月22日日曜日礼拝メッセージ音声はこちらから、
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ホセア6:1-11
1 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。2 主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。3 私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。
★民の悔い改めの呼びかけ v1-2
この箇所は、ついに民が、「神を知ることを求めよう」と、悔い改めを呼び掛ける声から始まります。状況は。。。。四章、五章であったとおりに、時は、アッシリヤ、エフライム戦争、神に頼ればいいのに、神の民は外国に頼った。前回五章で話しました通りです。そして、民は、「悔い改めよう。」を始めます。主は、私たちを打ったけど、立ち返ったら、きっと赦してくれる。。。と。
いよいよ、神様に心が向いたのだろうか。。。と、読み手の私たちの心は期待します。
★何事もイエスのよみがえりの力頼み? V2
主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。After two days He will revive us; On the third day He will raise us up, That we may live in His sight.
仏教の中でも、日本に来て他力本願という考え方・言葉がありますが、これは、お経を唱えるだけで、とか、観音様によって。。。とかいうことですが、キリスト教で言えば、救いは他力本願以外の何物でもありません。しかし、一つ、日本仏教との違いがあります。それは、心根が変わることが要求されるところです。
〇心根が変わるのは、悔い改めから来るわけですが。悔い改めとは、180度生き方が変わること。
悔い改めは、真の神との個人的な出会いによってはじめて起こるものでもあります。頭で、いけないことだと認識して、悔い改めます。というのも、いいことですし、スタートラインとして素晴らしいことです。でも、遅かれ早かれ、もしその心が本気なら、神様とばちっと目が合う体験をするのです。もうそうなったら、古い生き方でいられないのです。自分が神に見られる=自分がどういう人間かはっきりわかる。神の瞳に映る自分を見る。自分を知って初めて神の偉大さが分かる。。。
〇この箇所は、諸説あります。キリストの十字架の死と葬りと復活の三日間のよみがえりを預言的に暗示していて、神の赦しを強調しているのではとも取れますし、また、民が、早く私たちの現状を変えてください。神様なら、一瞬で私たちを赦して何とかしてくれるはずだという何ともお気軽な、他力本願で言っているも取れるわけです。
私たち、クリスチャン生活もこの二つの狭間を行ったり来たりすることもあるのではないでしょうか。
神様の赦しとそこからくる回復を当たり前のように、くださいくださいと叫んでいる。神様には確かに、なんでもおできになります。祈りはどんな祈りでも必ず聞かれます。クリスチャンの祈りでなくても、神様に祈るなら、聞かれます。神様は、そのようにとっても忠実、誠実な方です。
その神様が求めているのは、私たちの心です。
★エフライムの朝もやのような誠実 v4-6
4 エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り離し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
神の誠実さにマッチする誠実さは、この民にはなかったようですね。朝もやのようだとあります。朝湧き上がるけど、すぐに消えてなくなってしまようなものだというのです。口先だけの悔い改めとはそのようなものです。
何か、かなえて欲しい願い事があるときに、妙に熱心に教会に足を運んだり断食祈祷院に行ったりすることがあります。私も、その経験はあります。道が閉ざされている時、道が見えない時、よく断食祈祷院に行きました。一週間、祈り詰めました。しかし、いつもいつも教えられることがありました。それは、形ではなく、心だということでした。そして、その心があるなら、何がなくても大丈夫だということでした。
〇神の誠実Mercy -- ヘブル語の「ヘセッド」checedの本来の用法は、「契約の両当事者が互いに他方に対して守るべき忠誠と誠実の態度をあらわすこと」にあります。
日本語では、憐れみとありますが、契約に基づく誠実さというのが、本当の意味でした。私たちも結婚の時に誓いの言葉を交わし、結婚関係に入ります、毎日、その時の言葉通りに行うことで、約束を互いに果たしています。ちょうどそのような誠実さを神様は、私たちに求めているのであって、宗教儀式を求めていないというのです。約束は、行動がなければ、意味がない。。。のです。
〇信仰のなさ…神は、契約を必ず守られる誠実な方であるということを信じること、ここに私たちの力があります。たとえ、道が見えなくても、例え、道が閉ざされていても、神は生きていて、神は信じる者には必ず答えてくださる方だと揺るがない信仰を持つこと、これが、いけにえにまさる、私たちの誠実なのです。わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。For I desire mercy and not sacrifice, And the knowledge of God more than burnt offerings.
宗教的になることでも、善行を積むことでも、なく、私たちの神の契約に基づく信仰が神を何よりも喜ばせるのです。
★悔い改めの実のない民 v7-11 忍耐のなさ
7 ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。8 ギルアデは不法を行う者の町、血の足跡に満ちている。9 盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは仲間を組み、シェケムへの道で人を殺し、彼らは実にみだらなことをする。10 イスラエルの家にわたしは恐るべきことを見た。エフライムは姦淫をし、イスラエルは身を汚している。11 ユダよ。わたしが、わたしの民の繁栄を元どおりにするとき、あなたのためにも刈り入れが定まっている。
神ご自身を信じないで、「一瞬で神によって状況が変わることを信じて」いた民は、口の根の乾かないうちに、もう、契約をやぶり、うらぎり、人殺し、姦淫をし、身を汚しているというのです。
口先だけきれいなことを言って、行動が伴っていない民。みなさん、私たちの信仰には、必ず行動が伴います。信仰と誠実は行いに現れることを私たちは忘れてはいけない。私たちは、心で信じているとおりに行動をするのです。
〇忍耐のなさ
イエスラエルの民は、神の手の下でしつけられる忍耐がありませんでした。みなさん、人は変わるには、体に染みついた癖と自分が戦ってその都度、神を選んでいくというプロセスが必要ではありませんか。この民は、そのプロセスの元で、じっと自分の罪深い心根に忍耐することができなかったのです。自分の汚さとエンゲージして押し問答して、毎回神に勝利していただく、という忍耐がなかったのです。「一瞬で神によって楽な状態にしていただけることを信じていた」のですから。
本当に悔い改めた人には、行動が伴います。心根が変わるので行動が変わるのです。しかし、行動を通して周りに分かってもらえるには、時間がかかるものです。みなさん、このプロセスを大切にしましょう。家族や、友人、親しい人に神様のすばらしさが伝わるのは、悔い改めの実を通してです。時間がかかろうと、神様を信じて、実を結ぶことを目指しましょう。
シアトルの秋のそらです。とても、さわやか。朝晩は、寒いですが、その冷たい空気もさわやかで、大好きです。紅葉で山もきれいです。日本の紅葉には勝てませんけどねー。こちらは、常緑樹が多いので。。。
2017年10月8日日曜日礼拝メッセージ音声は、
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ホセア5:1-15
祭司たちよ。これを聞け。イスラエルの家よ。心せよ。王の家よ。耳を傾けよ。あなたがたにさばきが下る。あなたがたはミツパでわなとなり、タボルの上に張られた網となったからだ。2 まがった者たちは落とし穴を深くした。わたしは彼らをことごとく懲らしめる。3 わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。4 彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。5 イスラエルの高慢はその顔に現れている。イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく。6 彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。7 彼らは主を裏切り、他国の男の子を生んだ。今や、新月が彼らとその地所を食い尽くす。8 ギブアで角笛を吹き、ラマでラッパを鳴らし、ベテ・アベンでときの声をあげよ。ベニヤミンよ。警戒せよ。9 エフライムは懲らしめの日に、恐怖となる。わたしはイスラエルの部族に、確かに起こることを知らせる。10 ユダの首長たちは地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。11 エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。13 エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。14 わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになるからだ。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない。15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。
歴史的背景
ホセアのイスラエルに対する預言、この預言は、アッシリアの侵略によって生じたパレスチナにおける、前733年いわゆるシリア・エフライム戦争を示していする。
敵に打ちのめされるという状況の中で。。
○神には知られているが、自分は隠れているつもり—恥
V3-4 3 わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。しかし、エフライムよ、今、あなたは姦淫をし、イスラエルは身を汚してしまった。4 彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。
神は、知っていた。私たちが罪を犯している時も、どんな時も、私たちは神に知られている。Gaze 神のまなざしについて、以前話しましたが、私たちは、神のまなざしから離れるといいことがないのです。私たちは苦しみ、寂しく、むなしくなります。しかし、私たちは、神のまなざしから逃げてしまうのです。それは、罪から来る私たちの自動的な行動です。罪が入ると、罪悪感が入り、そして、恥が入り、恐れが入り私たちは神の目から隠れようとします。最初の人、アダムとエバが罪を犯して真っ先にしたことは、隠れることでした。物理的だけではなく、心理的にも、実は、脳科学的にも恥は、私たちを隠そう、または、人目に見えないようにしよう、まなざしを避けるようにするのです。恥と、脳について。
V4「彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。」とありますが、なぜでしょうか。
ここでも、恥が貢献しています。アディクションもワークホリックも仕組みが同じです。恥から恥へと私たちは導かれるようにサイクルの中にはまります。聖書は、御霊の働きによって栄光から栄光から栄光へと書いてあるのに、まるで真逆ですね。恥にとっては、感じることが恐怖です。見つかりたくないから、自分の脳や心の中でさえも、恥は、自分の存在を隠して、影武者のように人生を支配していきます。恥の存在に向き合わないために人は、自分の感覚を麻痺するようにするように行動します。ある人は、お酒によって自分を麻痺させ、この箇所では姦淫によって、また働きすぎでも自分の感覚を麻痺させることができます。その結果、どうなるでしょうか。また恥に導かれます。飲みすぎた、仕事でトラブル、また恥の恥になりまたくるくるサイクルに入っ行きます。
ブリネー・ブラウンは、人は喜びに耐えられない。と言いました。恥は、喜びという栄光ある感情に耐えられないというのです。これは真理をついてます。栄光が本当に欲しいなら、隠れないで神の前に出てこなければいけません。喜びをつかむには、ボルナラビリティがなくてはなりません。(隠さず神の前に裸になること。)
○躓きは、躓きをうみ、霊的な目が曇る、神が余計に見えない
v5-6 5 イスラエルの高慢はその顔に現れている。イスラエルとエフライムは、おのれの不義につまずき、ユダもまた彼らとともにつまずく。6 彼らは羊の群れ、牛の群れを連れて行き、主を尋ね求めるが、見つけることはない。主は彼らを離れ去ったのだ。
先のみ言葉に続いて、恥のサイクルの中にいては、主を見つけることは難しいとあります。躓く人は、何度も躓きます。不思議なことです。それは、一つの躓きが次の躓きを産み、躓けば躓くほど、霊的な目がくもり、心が麻痺していくからです。躓きを避ける最大の攻略は、いつも神様の前にボルナボル裸になれるかということにかかっています。神様に正されても、それに従う勇気があるか。神様の忠告を受ける勇気を持っているかということです。
○目に見える人/国に希望を見出そうとする、助けを求めても無駄だ
v12-13 12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。13 エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。
人は、自分の問題に気が付き始めたとき、行動を起こそうとします。神様は、この預言の中で、イスラエルは、神をないがしろにし、神を役立たずのようにみなし、自分の問題を直すために、大国に助けを求めたというのです。しかし、この大国でさえ、イスラエルの病をいやすことはできなかったのです。
人に頼ると罠に陥ると箴言にも書いてあります。何か問題が起きたときに、自分の問題が見えたとき、私たちは、人でなく、神に向かうべきです。今、何か、物事がうまく行かない、自分の腫物を見たなら、神に行くべきです。無駄な時間を過ごさず、神様を腐れにせず、そんな時こそ、神様に聞くべきです。
○罪を認め、神の臨在を求めること
v15 15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう
罪を知ることは、解放。罪を認めることは、自由。顔=臨在 神と共にいること
勝利の入り口は、ありのままの自分の状態に目が開かれることです。これは、簡単なことではありせん。自分を客観的に見れることは、成熟を意味しています。何も恥ずかしいことではありません。本当の自分を隠して、自分を美化して美化された自分を信じるのではなく、ありのままの自分を知り、そんなありのままの自分が神に受け入れられている、神に知られていることを理解するところに解放と成長があります。
自分が分かったら、もう癒しが90%なされたと言っていもいいくらいなのです。そういう意味では、人は、自分自身をもGaze することが難しい存在なのかも知れませんね。自分を見つめることを避けて、自分の美化した理想像を追いかけているのでは、それはそれで偶像礼拝のようになってしまいます。
自分を見つめること、そして、神の御顔を求める、つまり、神のまなざしの中に入ることは、私たちの解放と癒しであります。
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