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ぼくしのめがね

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一粒の麦がもし死ななければ

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日本からのお客さま。。シアトル... 日本からのお客さま。。シアトルは十年ぶりだそうです。
今日は、遠く、レイクスティーブンスからも礼拝に参加された方があったりと、嬉しいサプライズでした!
みなさんも、お気軽にお立ち寄りください。日曜日は、12:30pm より皆さんでランチを食べていますー。
2018年4月8日日曜日バイリンガル礼拝音声は、


ヨハネ12:23-26

23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
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先週は、イースター礼拝で、復活についてお話ししました。先週に引き続き、復活のテーマでお話しします。

12章のはじめでは、異邦人の人たちがイエス様に会いたがり、弟子たちにお願いするようになりました。するとイエス様は、神様の時が近づいていることを感じ、一粒の麦の話しをされました。すなわち、もうすぐ、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも福音が届き、もっともっと多くの人々、全世界の人たちがイエス様によって霊的な祝福を受け取ることができるようになるからでした。しかし、その前に、十字架と死と、葬りと復活が無ければいけませんでした。そこで、一粒の麦の話をとれました。

神様は、地上の全てを造られましたが、その全てに神様特質・メッセージを入れておられます。神様は、種をデザインされ、種が地に落ちて、種の殻が割れて中の栄養が全て新芽に吸われて、新芽が殻を破って出てきます。これを、ユダヤの当時の人たちは「死」とみなしていました。種は、自分が死ぬことによって新しい命を生み出します。

★豊かに実を結んだストーリーit produces much grain

・宣教師 
私の母教会は、スウェーデンからの宣教師によって創設されました。人口の少ない小さな町ですが、教会ができました。宣教師の中には、独身の女性もいました。私の親世代の宣教師などは、シベリヤ鉄道に乗ってはるばるスーツケース一つもってやってきたのです。西洋から東洋へ文化も言葉も違う中、今のようにネットも電話もできない時代でした。

わたしも一人の宣教の青年の働きによって救われました。アメリカから来た、わたしよりも一歳年上の兄弟でした。私は、まだ二十歳でしたから、彼のその行動を不思議に思っていました。この人は、恋人をアメリカにおいて、若くてやりたいこともたくさんあるし、遊びたいだろうに、わざわざ、言葉も通じない、文化も違う、しかも、LAからこんな田舎に、どうして来たんだろう。。。これが私の一番の疑問でした。

また、キャンパスクルセードのチームが来ました。韓国の青年たち。当時は、日本は円高ですし、経済の格差も大きかったです。彼らは、自分で働いて、一、二年お金をためてまで、日本に来ました。日本でも、食べるものは、白いご飯どんぶりめしでやまもり食べて、質素な食事をしていました。私は、そこまでして、私たちに親切にする姿に感動しました。
マイカも今日本に行っていますね。マイかもスタバをやめていきました。帰国後の仕事がどうなるかは、神様に信頼するしかありません。

・イエス・キリスト

イエス様は、ご自分を一粒の種に例えられています。それが死ななければならない、と。イエス様がもし十字架にかからなかったら、その命を捧げなかったら、死も、復活もなく、私たちの救いもないのです。イエス様は、自分の命を天の目的のために捧げられました。
宣教師たちも、自分の人生の楽しみ、楽、生活を捧げて、天の声に従って日本に来たのです。

★私たちにとって死ぬこととは。。。Meaning of death 

v25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。He who loves his life will lose it, and he who hates his life in this world will keep it for eternal life

・自分のいのち  

自分のいのちを憎むとありますが、ここでいういのちは、新約聖書の原語ギリシャ語では、サイキという言葉が使われています。これは、the soul の意味であり、情、欲望、感覚、衝動を含みます。the seat of the feelings, desires, affections, aversions  自分、自分という自分がかわいいという思いです。

先に述べた宣教師もイエス様も自分のいのちを憎まれました。
イエス様は、自分のいわゆる肉の欲、情、衝動は死ななければならない。と言われているのです。この肉の性質というのは、世に属するものです。

◎ 人生の車の運転席

こう考えたら分かりやすいです。自分の人生の車の運転席にしがみついてハンドルを思いのままにきるのも一つの生き方ですが、その運転席を、自分よりも優れた運転者神様にお任せする、運転したいという欲を置いて神様に任せるという風に考えたら分かりやすいかも知れません。マイカも、帰国後の仕事探しなど不安はあるけど、神様が今も将来も運転して目的地に連れて行ってくれると信頼するから、自分の運転欲、我を捨てることができたのですね。

イエス様も罪は犯されませんでしたが、肉の体に宿る葛藤を経験し、知っておられました。

◎自分がなくなる??
よく人に聞かれるのは、自分に死んだら自分がなくなっちゃう。。自分がなくなるのがいいのか? と聞かれます。けれども、ここで書いてある通り、自分のいのちを憎むものはそれを保ち、そして、その上に永遠のいのちに至るとあります。だから、自分はなくならないのです。
ですから、私が私が、わたしわたし。。。という思いではなく、神様に自分をゆだねるときに、私も保ちますし、永遠のいのちにも導かれるということなんです。
ですから、人生の車の運転席のようなものなんです。車がなくなるわけではないんですね。

・永遠のいのち  

自分のいのち・情を憎むものは、それを保って永遠の「いのち」を得る、と。言葉には原語では、違った言葉が使われています。それは、ゾーエーと言う言葉です。Of absolute fullness, both essential and ethical which belong to God, life real and genuine, a life active and vigorous, devoted to God. 絶対不可欠であり、道徳的にも全くの充足しているさまであり、神に属するものである。本物の命である。活動的で、活発な神に献身した命である。
◎自分の命憎むとき、永遠の命に至る。。。he who hates his life in this world, will keep it for eternal life

 種が死に、芽という全く違う形のものが生まれる。自分の命を憎むなら、永遠の命に至る。たましいの領域から、霊が生きるという領域に移される。死から不死の世界に移る。質の違うものに変わっていく様を語られている。すなわち、自分の命を憎むものは、変革を体験し、生き方が変えられるということである。

◎人には、生き方の型がある。Type of life

私は、「自分の行いで人の愛を得る」という型にはまって小さい時から生きてきました。無条件の愛が分からなかった。ですから、entitlement (資格、権利獲得)という罠といつも隣り合わせでした。これだけしたから、これだけ報われるだろう。であるとか、何か、無意識のうちに、神様の前に頑張って、神様の私への愛を増やすというか、神の前に認められようとする、そのような生き方でした。しかし、それには行き詰まりがあります。何をどうしても道が開かれない時がありました。そんなとき、神様に語られたのは、信仰についてです。

へブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.

へブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。But without faith it is impossible to please Him, for he who comes to God must believe that He is, and that He is a rewarder of those who diligently seek Him.

私は、道が見えない、閉ざされていると思っていました。こんなにしているのに。。。と。でも、本当に見えていなものは、神さまだったということ。信仰は、自分の祈りの課題が成就することを信じすることではなく、神様を心の目で見ることだと分かりました。それが、はっきり分かった時、閉ざされた道が奇跡的に開かれました。

★新しい生き方の型。イエス・キリストについて行くこと。New type of life; following Jesus

V26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。26 If anyone serves Me, let him follow Me; and where I am, there My servant will be also. If anyone serves Me, him My Father will honor.

私たちの新しい生き方の型は、イエス様について行くことです。ここに、実りがあり、ここに本当の命があります。なくならない、命、増え広がる命があるのです。これは、復活とともに、大きくの命がついてくるという力を持っています。みなさん、これがわがままに死ぬことの報いです。死に対して、私たちは何もできませんが、神は、そこに命を吹き込まれます。自分のわがまま、我をすてることを恐れないでください。

この道には、報いがあります。私に仕える者は、わたしがいる所にいる。。。所  abiding in Me.John15, この場所は、私たちが宿るところ。留まるところ。泊まるところ。住まうところ。主にある安息を意味する。主にある充足。主のSeat of Rest  

★一つだけ覚えていて欲しいこと。

皆さん、新しい生き方に入りませんか。自分のいのち・感情や衝動を愛する生き方から神に属する命に写りませんか。 種は内側から、殻を破るのです。他の誰かが殻を破ってくれるのではありません。そこには、あなたの意思がとても重要に関わってきます。あなたの決断。新しい命に入りたいという決断かとても大切なのです。新しい命に入りましょう。そこには、神様の約束があります。必ず多くの実りと報いがあるのです。
#イースター #ヨハネ12 #礼拝

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